2016年11月1日火曜日

初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓と京都嫌い


初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓(ひいき)と京都嫌い

 

 初代伊藤忠兵衛(18421903)にとって、明治5年(1872)の大阪開店は、個人的には一代の大勝負であったが、全体的な時代の流れで見ると、大阪を目指した多くの近江商人団の一員としての進出、という側面を持っていた。しかも、気取らず、本音で語り、迅速を尊ぶ大阪の土地柄は、生誕した村の江州(ごうしゅう)(べん)をもって終始するような真率で気の早い自然人であった忠兵衛にとって、気質的にも馴染(なじ)みやすい所であった。

近世の大阪は、摂津の平野・堺・八尾(やお)・城州八幡(やわた)・伏見・近江等の周辺地域から集まってきた人々によって作られた城下町なので、(うじ)素性(すじょう)は重視されない傾向にあった。さらに、城下町というにもかかわらず、上町(うえまち)台地の北部に位置する大坂城周辺は街の中心地ではなく、都心は町人居住地の船場(せんば)あったしたがって、町の雰囲気には17世紀後半の大坂で活躍した俳人小西来山(こにしらいざん)が、「お奉行(ぶぎょう)の名さへ覚へずとし暮れぬ」、と詠んだような伸びやかさがあった。

反対に忠兵衛は、大の京都嫌いであった。御所を中心に発展した伝統の街であるだけに氏系図や老舗(しにせ)が重視され、本音と建前を巧みに使い分け、外来者への警戒心の強い京都に強く反撥した。

それはを店印とする伊藤京店が、四条(しじょう)室町(むろまち)下ルに移転新築した際のエピソードからもうかがえる。移転新築を決行する前に、室町(たこ)薬師(やくし)下ルの旧店舗地で新築しようとしたが、大工の不注意から小火を起こしてしまい、隣家の主人から苦情が出た。その口上は

「大体さんはお店の人が若過ぎる、あんな人に任せてゐると自然火事も起るし、吾々は心配でたまらぬ」

というものであった。当主の忠兵衛自身による陳謝にもかかわらず、失火の原因を店員の若さに帰してとがめられたことに立腹した忠兵衛は、その場で店舗の移転新築を決断したのである。忠兵衛は、京都の他に比類のない工芸の技術力を認めて京店を設置したものの、京都とは肌が合わなかった。

新参者の忠兵衛を容れる包容力は、京都よりも大阪の方がはるかに大きかったのである。息子の二代目忠兵衛は、父初代忠兵衛の大阪贔屓を次のように述べている。

 

 父が如何に大阪を高く評価し、期待したか、仕事や交友は申すに及ばず、夏の火の見(やぐら)暮しから川涼み、夜店、植木市、さては十日(とおか)(えびす)の雑踏にまで揉まれに行く。第二の故郷と言ふよりも大阪が日本中の力を持ってをる様に惚れ込み、また働きよかった様である。

 

働き易い仕事場を提供した大阪への、忠兵衛の深い愛着と(なつ)かしみの伝わる思い出話である。店員の懐旧談にも、店総出の夏の涼み船の話が出てくるので、主従ともども大阪の風物詩を愉しんだのである。

 
末永國紀「近江商人初代伊藤忠兵衛の大阪時代」(大阪商業大学商業史博物館『紀要』第17号、平成28年、所収)

2016年5月5日木曜日

新しい市場の開拓


新しい市場の開拓

 

 近江商人の活動領域は、地縁血縁の期待できない他国であったから、彼らは一から市場を開拓していかなければならなかった。進取の気性や敢為の精神をもたねば、新しい産業や商圏を築くことなど出来なかったことはいうまでもない。しかも単に勇敢であっただけではなく、創意工夫を凝らし、状況に応じた的確な判断を下すことが必要であった。

 持下り商いを実施した創業期には、毎年同じ地域へ出かけて顔馴染になることに努めた。出先の庄屋・寺・神社・(はた)()などの土地の有力者を頼り、そのアドバイスを得ながら、得意場を定め、顧客を広めていった。

 市場開拓は販売法と関連が深い。享保19年(1734)、叔父の助力もあって19歳で合薬の持下り商いを始めた初代中井源左衛門は、衣料品の帷子(かたびら)を扱う同郷の先輩に導かれて上総国へ出かけた。合薬は配置販売であり、帷子は訪問販売であるので販売方法が同一であってはならないと考えながらも、初回のことなので源左衛門は先輩の言を容れて一緒に回村した。2回目以後、源左衛門は自由な単独販売に移り、関東から甲信地域に販路を広め、売子も使用するようになり、延享2年(1745)最初の出店を下野(しもつけ)国の越堀町に設けた。

後に源左衛門は、90歳という長命を保ち、その資産は10万両を超えた。商品によって販売法は違うはずという判断を下しながらも、意に反する先輩の言を一度は受容した態度は、19歳の若者の判断としては卓越した思慮の行届いた行動であったといえる。

 販売促進法として、遊郭や浄瑠璃本を活用した近江商人もいる。寛政・文化の頃に次のような俗謡があった。「江州柏原、伊吹山のふもと、かめや左京のきり艾」という都都逸(どどいつ)である。これは、伊吹山麓に位置する中山道の坂田郡柏原(かしわばら)宿の(もぐさ)商松浦七兵衛が、伊吹艾を宣伝するために、江戸において吉原の遊女に唄わせたものである。そのため、江州柏原といえば、伊吹艾が合言葉のようになり、参勤交代の武士から庶民の旅人までが買求めるようになった。

 伊吹艾がどれほど著名な道中土産であったかといえば、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)降嫁一行が柏原宿を通過した際、艾店の一つでは3棹の大長持(おおながもち)に一杯入っていた小売包に売り切れが出たといわれている。また、七兵衛の兄の松浦庄兵衛は、大坂で伊吹艾を宣伝するために浄瑠璃本を作成させている。松浦兄弟は、当時の大衆に訴える効果的な宣伝媒体を利用したのであり、その斬新な宣伝方法は現代のマスコミを使った商品広告の走りであったといえよう。

 近代に入ると、様々な西洋の文物が流れ込むようになった。近江商人のなかにも、新しい輸入品を商って成功するものも出てきた。あまり知られていないが、明治初期に嗜好品のビールの醸造販売にたずさわった近江商人がいる。

販売のためのビール醸造は、明治五年(1872)の大阪での製造が初めてとされている。しかし、同じ頃、野口正章(18491922)も山梨県甲府市でビールを醸造している。

野口家は、蒲生郡日野の桜川村の出身で、初代が関東地方への行商の途次、甲府を選んで宝永年間(17041710)に酒醤油の醸造販売店を開いたことが始まりである。屋号は十一(じゅういち)屋。十一屋の若主人の正章は、非常な舶来好みであり、明治23年の頃から試験的にビールの醸造機械を研究し、山梨県令の藤村紫朗の奨励もあって醸造機械を設備し、明治5年には横浜でビール醸造を手がけていたアメリカ人のW・コープランドを招聘(しょうへい)して醸造法を習得した。数年間に10万円余の私財を投じての苦心の末に、明治74月に完成品の生産に成功した。  

正章は、三ツ(うろこ)の商標をつけて外国人の多く住む京浜地方に売り出した。野口家の三ツ鱗のビールは、28年頃には、「山梨ビール」の名前で山梨県内14箇所の店でも販売されるようになり、34年まで存続した。江戸時代から醸造業を得意とした蒲生郡日野出身の近江商人のなかにあって、正章は新製品ビールの醸造販売の鼻祖の位置を占めている。

ちなみに、正章の妻は女流南画家の野口小蘋(しょうひん)18471917)である。大阪生まれの小蘋の旧姓は松村親子。明治10年に正章に嫁した。画を日根野對山(ひねのたいざん)博覧会共進会皇族絵画教授宮内庁依頼屏風作品族学校奉職37年には帝室技芸員になった。
また、黒田清輝・和田英作・平福百穂に師事して、洋画と日本画の両方を修めた野口謙蔵(19011944)は正章の甥であり、近江の風物をこよなく愛し、よく描いた。

2015年1月16日金曜日


      “商いに気張る”ということ

 

川島又兵衛の逸話
 滋賀県では、年配者による日常のあいさつ言葉は、「おきばりやす」である。道端で出会って、ちょっとした会話をして立ち去るときに交わされる。元気で働けること、健康体であることへの祝意を込めた相手を思いやる言葉である。

  このような言葉を日常的に使う地方を郷里とした近江商人が、ことさら勤勉で、すさまじいほどの頑張り屋であったことは言うまでもない。商いに気張るということが、どんなことだったのか、逸話の一つを挙げてみよう。

  川島又兵衛は、神崎郡川並(かわなみ)村の出身で、天保年間の人である。東北や関東地方に行商した。屋号を大二(おおに)と称し、若い頃から忍耐強く、商利を見て進むことが早く強かったので、屋号をもじって鬼又(おにまた)と呼ばれたほどの者であり、後にはひとかどの豪商となった。

 


逆の意味での嘆息
 中山道の碓氷(うすい)峠を連れの商人と二人で、それぞれ10貫目(37.5キロ)ほどの荷を担いで越えたときの話である。碓氷峠は、信州(長野県)軽井沢と上州(群馬県)松井田の境にある標高960メートルの峠であり、日本海側と太平洋側の分水嶺である。  

時は夏の盛りの土用の頃であった。信州側へ向けて宿を出立して山道を登り始めたのは、涼風が吹き、見事な景色をめでる余裕のある早朝であったが、ようよう山腹にたどりついて一服した時分には、日も昇り酷暑となっていた。

 連れの商人は、荷を降ろすやいなや、喘ぎながら嘆息して思わず泣き言をもらした。

「浮世の渡世には様々あるとは言いながら、真夏にもかかわらずこんな険し い山道を重荷担いで峠越えする苦労を考えると、いっそのこと(すき)(くわ)をもって田畑を耕す農事に戻ったほうがましだ」

と、自分の選んだ境涯をぐちった。

 この言を聞くやいなや又兵衛は、

「私もお前さんと同じように嘆息している。けれどもそれは逆の意味である。例えば、このような難所のある山が五つも六つもあれば、大きな商利が得られるであろう。なぜなら、この位の山がわずか一つあってさえ商人をやめて百姓になりたいと願う人が出るのだから、険しい山がもっとたくさんあれば、信州へ入って商売しようとする競争相手はいないであろうにと、山の少ないのを残念に思うからである。」

 又兵衛のこの発言を聞いた連れの商人は、無益なぐちをこぼしたことを反省し、この一言で心の迷いが吹っ切れたと感謝したのである。以後彼は、商いに専心するようになり、商人として大成したという。


世の中あっての商い
 
 
 又兵衛の想いは、商利を前に飽くことなく前進する、勤勉でたくましい精神を表している。しかし、単に勤勉であるというだけでは、致富への道は遠かった。取引先をおもんぱかる、相手の立場に立つことのできる度量が必要であったことは無論のことであり、世の中あっての商売という社会認識は欠かせないものであった。

新刊『近江商人と三方よし 現代ビジネスに生きる知恵』を発刊しました


末永國紀(著)
発行: モラロジー研究所


第I章 CSRの源流としての三方よし
  • 信長と近江
  • 三方よしの原典と石門心学
  • 出店経営と他国者意識
  • 大名と外来商人
  • 三方よしと現代経営

第II章 商いの手法
  • 他国商人との比較
  • 先進的な商法と文化の伝播者
  • 高利望まず薄利のすすめ
  • 商いの極意
  • 致富に至る商いの要諦
  • 本業の維持と多角化
  • 商売替え法度と創意工夫

第III章 市場開拓と海外発展
  • 北海道の開拓
  • 市場開拓と金融的貢献
  • 東南アジアと朝鮮半島での活躍
  • 海外渡航と経営判断
  • 中江勝治郎と禁酒法下のアメリカ
  • カナダ移民となった近江商人の後輩たち

第IV章 幕末開港の波紋
  • 彦根藩主の大老井伊直弼
  • 金貨投機と桜田門外の変急報
  • 開港による海外貿易への覚醒
  • 初代伊藤忠兵衛の節義と果断
  • 徒手空拳から近代実業家へ

第V章 人材を育てる
  • 後進を育てた才徳兼備の先達
  • 商いの常備軍の養成
  • 奉公人慈育
  • 自由な議論と若者の簡抜
  • MBAの先駆、八幡商業学校
  • 商家の妻の育て方

第VI章 品格を磨く
  • 教養とたしなみ
  • 諸葛孔明の家訓と矢尾喜兵衛の格言
  • 文人になった商人
  • たしなみの域を超える余技
  • 修養と遊楽
  • 商人と学問
  • 学問の力、窮して乱れず

第VII章 家業承継への願い
  • 伊藤八重のこと
  • 女性の役割
  • 西川産業四五〇年の事業承継
  • 承継者としての二代目
  • トップの資質
  • 押込め隠居の決断
  • 名家の興亡

第VIII章 語り継ぐ人となり
  • 正直と薄欲
  • 信仰と奢りへの自戒
  • 初代中井源左衛門光武の立志伝
  • アリギリスという生き方
  • 利を手にする作法
  • 不破弥三郎の正直

第IX章 陰徳を積む社会貢献
  • 時代の寵児、時代を読む
  • 勝海舟と塚本定次・正之兄弟
  • 還暦記念の小学校寄贈
  • 信仰と積善の家

2014年9月19日金曜日


2014カナダ・ヴァンクーヴァからの便り―①

 

“日々是好日”

 

ヴァンクーヴァーの滞在

2014年の夏もまた、ヴァンクーヴァーで過ごしている。すっかり夏の恒例行事として定着してしまった観がある。定宿は、UBCのキャンパスに立地するホテルである。キッチン付きのルームを借りて、この恒例行事にはいつも率先して参加する家内のお蔭で、日常的なことに煩わされず、静養を兼ねた静かな研究環境を確保できているのは、当節ではまことに稀有なことかもしれない。

文書の解読と論述に倦んだ夕方には、ホテルから車で3分の海岸沿いの道へ散歩に出かける。6キロほどの遊歩道が、大きくて穏やかな入り江に沿って走っている。海には、絶えず10隻以上のタンカーが停泊し、大小の船や白いヨットが行き交っている。入り江の北側のかなたには、ロッキー山脈の端っこに連なる雪山が見え、東方のダウンタウンのビル群も遠景を飾っている。

週末はビーチバレーのネットが数十も張られ、いたるところでBBQができる。犬の運動も可能であり、サイクリング道路も通っている。キチンと利用ルールが守られているので、実に静寂・安全であり、ゴミの散在もない。夏季でも日中の気温は24度前後であり、ドライの風が吹いているので、潮風といえどもベトツクことはなく、散歩道として恰好の場所である。

カナダとのご縁

近江商人の研究者ながら、カナダとの“ご縁”ができたのは、1992年以来である。すでに20年以上が経過している。京都産業大学在籍当時の同僚だった今口忠政氏(現・慶応大学名誉教授)がUBCを在外研究先に選んで、ヴァンクーヴァーに居住していたので、その夏に2家族でカナディアンロッキーを巡ったのがきっかけである。

旅行先の地理を検討しているうちに、はからずもカナダへの日系移民では、滋賀県からの移民が最多数を占めることを知った。日頃からの主張である近江商人の広域志向性を補強する素材として、俄然研究心に火がついたのは自然のなりゆきであった。以来、近江商人の末裔である滋賀県移民のビジネスを通じての定住過程をテーマに、毎夏の渡加(加奈陀)をくり返し、1998年からの在外研究先にUBCを選ぶことになった。

著書の発刊

研究成果の一部を、ミネルヴァ書房から『日系カナダ移民の社会史―太平洋を渡った近江商人の末裔達』として発刊したのは2010年。取り扱った内容は、第一次大戦時の日系カナダ義勇兵の足跡、カナダに展開した滋賀県移民による絹布商事会社シルコライナーの創業と経営、1938年のヴァンクーヴァーでの日系人の居住と営業の実態、リドレス運動の先駆となった太平洋戦争時の日系2世の苦闘、太平洋戦争後の日系人の再定住過程。

いずれの論考も、カナダと滋賀県内の両方で日系移民に関して調査発掘した史料をもとに、まとめあげたものである。調査の方法では、日本国内の近江商人の史料調査と同様に、ブリティッシュコロンビア州・アルバータ州・サスカチュワン州のカナダ中西部諸州でも、一次史料を発掘することを第一に心掛けた。

外国での調査

調査の思い出には忘れがたいものがある。その一つは、聴取調査が深更におよび、ホテルへの車での帰路に迷って、危うく深夜の外国の街で迷子になりかけたことである。また、数回のアプローチの果てに、ようやくドキュメントの委託を受けることに成功した時は、漆黒の闇となったアルバータ州の大平原のハイウェーを、ヘッドライトだけを頼りに運転することに何の不安も覚えないほどの熱気を感じたものである。

ともあれ、外国での調査活動には何事でも時間がかかる。一種のストレスを感じるのはいつものことであるが、それをいちいち苦にしていては仕事にならない。出来る限りの下準備は日本で調えて、健康第一に、気持の余裕をもって臨むほかはない。

2014年1月20日月曜日

石田梅岩と老舗大国



消費税導入と梅岩


日本で始めて消費税を導入するという決断を下した竹下登首相は、昭和63年(1988)の所信表明演説で、消費税の正当性を訴える不退転の決意を「たとえ辻立てして鈴を振りながらでも」と表現した。このフレーズは、石田梅岩の言葉を典拠にしたものである。

梅岩は、江戸中期の人。若年から、人には人の道のあることを世間の人々に説き聞かせたいという、一町人の身ながら大それた願望を抱いていた。その人生の大望を、「もし聞く人なくば、たとえ辻立してなりとも、我が志しを述べんと思えり。願うところは、一人なりとも五倫の交わりを知り・・・たとい千万人に笑われ恥を受くとも、厭うことなき志しなり」という覚悟のもと、ついに実現した人物である。

梅岩を創始者とする心学を、陽明学などと区別して石門心学という。石門心学は、庶民階級のみでなく武士階級にまで広まり、江戸時代においてもっとも広範な影響力をもった社会教化運動である。石門心学が、何故それほどまでに受け入れられたのかということを解く鍵は、梅岩の思想練成の過程にある。

出身と経歴


梅岩は、貞享2年(1685)に丹波国桑田郡東懸村(現、京都府亀岡市)の名の有る農家に生まれた。通称は勘平である。父親は、厳格で廉直な人柄であったという。次男であったので、11歳のとき京都に出て丁稚奉公したが、主家が傾いたので15歳で実家へ帰り、農業を手伝った。23歳となって再び京都の呉服商黒柳家へ中年奉公に出たときは、通常の商人としての出世コースを目指さず、神道に帰依して「もし聞く人なくば、鈴を振り町々を巡りてなりとも人の人たる道を勧める」ことを宿志として抱いていた。

奉公中の梅岩は、願望は願望として、店務に励み、番頭にまで立身するのである。梅岩は自分の性格について、幼年の頃から友達にも嫌われるほどの生まれながらの理屈者で、凝り性だったと述懐している。そのためもあってか、20代の半ば頃に、鬱病に罹っている。欝を晴らすために、人に薦められて遊興の道にも踏み込んだ。律義者にありがちな、人生の享楽や快楽を否定する謹厳実直一点張りではなかったのである。この遊興の体験が、梅岩を人情の表裏に通じさせ、商家奉公の経験とあいまって、石門心学を庶民に受け入れられやすくする素地となった。

奉公の身ではあっても、出身・学歴・境遇からすればほとんど痴人の夢に等しい人々を教導したいという梅岩の想いは、一層強固になっていったと思われる。何故なら、それは結婚を見送り、生涯独身を通したことからも窺われる。梅岩自身、家庭を持たなかったことについて、「人に道を説く宿志を抱いている身であるが、能力に乏しい自分は、孔孟のような多力の人と違い、家族を養いながら道を説く余力はない」と考えたからであると述べている。

主体的思考の重視


梅岩は多忙な奉公生活のかたわら、寸暇を惜しんで読書したという。しかし、読書の傾向は不明であり、誰を師匠としたのか、どのような思想遍歴を経たのかということは分らない。独学であったと思われる。

独学と体系的学問を学ぶこととのメリット・デメリットは、それぞれにある。師匠について体系的に学問を学べば、無駄なく教理解釈を身につけられるが、逆にドグマから逃れ難くなる場合も生じる。独学の場合は、一面では下手をすれば雑学に陥る危険性もあるが、他面では主体的な読書によって自由な思想を形成できる可能性がある。梅岩が独学であったことの石門心学への影響は、神道・儒学・仏教・老荘思想を習合させることによって、独自の世界観を築き得たことである

諸思想の習合と、20代からの20年間の町人社会の実体験とがあわさって、梅岩の思想は観念論に堕することなく、平易で個性的な特色をもつことになったのである。このような独自性は、梅岩の思想練磨の態度とも関連している。    

梅岩の唯一の師匠として判明している小栗了雲は没する間際、枕頭の梅岩に対して、註を付した秘蔵の書物を譲与しようとした。このとき梅岩は、「我れことにあたらば、新に述ぶるなり」と、きっぱりと断ったという。いわば、師の臨終の席で、その古今伝授の申し出を拒絶したのである。今日でも人情において忍びないものがあるが、逆に梅岩が尋常でない覚悟のもとに、いかに自分で思考することを重視していたかということが知られる。

享保14年(1729)、思想変遷と練磨の末に大悟して新境地を得た梅岩は、黒柳家を辞し、開悟の喜びを人々に分かち与えるために、京都市内の車屋町御池上ルに講席を開いた。45歳であった。当初は、聴講者がなかったり、2、3人であったりしたが、初志貫徹の熱意は、次第に市内で評判となり、享保20年には、1ヶ月の連続講義を実施するまでになった。元文3年(1738)、弟子とともに出かけた有馬温泉での合宿によって、主著『都鄙問答』が完成し、石門心学の根本宝典となった。晩年に『倹約斉家論』を著し、60歳で没した。

実践道徳


梅岩は、単に人間の本性を知るのみで満足したり、自分一個の安心立命に甘んじたりすることなく、実践こそ根本問題であることを身をもって示した。貧窮者や罹災者への施行においても、積極的に行動した。だから、実践をともなわない机上でのみ学問を説くことを徹底して軽蔑した。

たとえば、子弟に学問をさせた商家の親が子供のことを「家業を疎かにし、我れを高ぶり、人を見下し、親さへも文盲のように思う顔色が見える。しかも親の方も少しにても学問した者として、遠慮するのでますます始末が悪い」と歎くのに対して、梅岩は次のように述べた。「折角学問をしても、そのようにケッタイな人間ができるのは、先生の学者が間違っているからである。そのような学者は、長年にわたって文字を教え、書の心を得ない文字芸者に過ぎない。真の学者は、心に得て身に行うものでなければならない」と喝破している。

正直と倹約


梅岩は、実践道徳としての正直と倹約を何よりも重んじ、商人の職分と営利活動の社会的正当性を、「天下の財宝を通用して、万民の心をやすむる」仕事であり、営利は「商人の売利は士の禄に同じ、売利なくば士の禄無くしてつかえるがごとし」と主張した。商工は市井の臣であり、商人の職分は武士や農民と遜色はないのであり、そこに商人の社会的意義があるというのである。

このような主張に説得力をもたせるために梅岩は、商業道徳の根本を正直においた。経済社会が成立するには、所有関係と契約関係が尊重されなければならない。そのことを梅岩は、「我が物は我が物、人の物は人の物、貸したる物はうけとり、借りたる物は返し、毛筋ほども私なくありべかゝりにするは正直なる所なり」と述べ、信用の根本が正直にあるとした。

人間本来のこの正直の心をとりもどすには、倹約を身に着けねばならないことを、梅岩は人間存在そのものから説いている。「天地の間に生を受ける者、やしないなくして有るべからず、一日も食わねばねらぬこの身なり」であるからこそ、物を無駄にすることは厳に慎み、物を活かすように倹約しなければならないというのである。さらに、物を活かすよりも人を活かすことを重視して、他人に迷惑をかけない正直は、他人の心を煩わさないという意味での倹約に通じるとした。

梅岩の活動は、重農抑商をスローガンとする八代将軍吉宗の享保改革の最中であった。商業活動の受難期に、人間存在そのものから発して、敢然として経済社会と商人存在の正当性を主張した梅岩と石門心学は、現実の商業界では近江商人などによって実践され、時代を越えて今日の老舗大国日本を生み出す歴史的源泉となったのである。

『人間会議』

2013年10月24日木曜日

三方よしと現代経営

1 三方よし経営とは

近江商人という呼び方は、近江国以外の人々が、「あれは近江国からやって来た、外来の商人なのだ」という意味で使った言葉である。近江国内でのみ商売する人は、近江商人とは呼ばれない。現在の滋賀県域である近江国出身者であって、他国商いに従事した人々こそ近江商人と呼ばれる有資格者である。

近江商人の前史は、鎌倉時代にさかのぼる。その当時から近江では隊商を組んでの隣国行商が活発であった。江戸時代に入って、天下が統一されて治安が良くなり、街道や宿場の制度が整ってくると、単独、あるいは少人数での旅ができるようになり、近江商人の足跡は北海道の松前・江差から九州の長崎・鹿児島に見られるようになった。なかでも出店の数が多かったのは、関東である。これらの出店では、呉服太物、小間物から荒物にいたる日用品を扱い、同時に酒造業などの醸造業に従事した。近江国日野の出身で、駿河国御殿場を中心に醸造業や日用品の卸小売りなどの出店を、享保3年(1718)以来数ヵ所にわたって設けた山中兵右衛門などもその一人である。


近江商人による出店設置は、明治・大正期に入ってもなお活発であった。その範囲は朝鮮や中国はもとより、南北アメリカにまで広がった。これらの出店の後身が、現在の近江商人系企業である。


現代の日本は、世界一の老舗企業大国といわれ、社歴が100年を超える企業は、5万社以上あり、200年を数える企業は世界の45%にも及んでいる。この老舗企業の一角を占めているのが、近江商人系企業であり、800年を超える歴史を持った近江商人は、まさに日本型経営の源流の位置にある。


2 商いの手法

近江商人の商いの手法は、天秤棒をかついだ行商時代は持下り商いと呼ばれ、出店を持つようになると諸国産物廻しといわれる。すなわち、上方から呉服太物・小間物・売薬などの完成品を地方へ持下り、地方の生糸・紅花・青苧などを上方へ持ち登る手法である。完成品とその原材料を扱う、一種のノコギリ商いであり、現代商社のような効率の高い商法であった。そうした手法は、豊かな富の源泉となり、同時に文化の伝播と地方物産の開発に貢献することになった。

近江商人の行商は、見込みを付けた地方へ毎年出かけて商いに従事することによって、顔なじみを増やし、地縁も血縁もない所で地盤を築いていくものである。その上で、「三里四方釜の飯を喰うところ」、という出店立地に関することわざが残っているように、有効需要のある有望な土地を選んで開店した。


行商に始まり、やがて出店を開くようになる近江商人の他国商いは、出先の人々に受け入れられなければ、商人としての立身も、出店の定着も不可能であった。「近江泥坊」と揶揄されるような、巧みな商法で儲けた分を、洗いざらい生国近江へ持ち返るだけでは、せっかく築いた商圏を維持できないのはいうまでもない。出向先の地域や人々から評価され、信頼を得るための商いの姿勢を端的に示すものが、「売り手よし、買い手よし、世間よし」からなる三方よしの理念である。したがって、三方よしは、近江商人の商いの手法そのものに由来する理念である。
 

三方よしの理念は、宝暦4年(1754)に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸が、孫娘の婿に迎えた15歳の養嗣子宗次郎に書き残した「宗次郎幼主書置」のなかの一節が原典である。その表現が変遷して、現代の三方よしという短いキャッチフレーズとなった。三方よしの順番では、なぜ売り手よしが一番手に置かれているのだろうか。早計に、「やはり、自分の都合が最優先なのか!」と、短絡的にとらえるべきではない。売り手よしは、売り手の側に立って働く人たちの環境が良いという意味にとらえるべきである。働きやすい職場環境が整えられていることが第一の条件ということである。誰しもパンのみのために働くのではない以上、働く意義を見出せる職場を希求している。

接客の現場に立つ販売員であれば、良い職場環境の下で、接客への熱意や顧客満足のための自発的な工夫を生み出すことができ、売る側とお客の双方にとって心地好い売買が成立し、その好い記憶が二番手の買い手よしとなって、一見のお客を再来の顧客に転化させるのである。こうして、売り手よし、買い手よしを実現でき、仕事の喜びを感じられるようになると、三番手の世間よしという、仕事の社会的意義に目覚めるようになるであろう。
三方よしが、うまく循環するようになれば、働き手は働き甲斐を得て、ますます情熱をもって仕事に励むことができる。売り手よしは、このようなプラスの循環の最初に位置するからこそ、三方よしの一番手に挙げられているのである。 
 

実際の経営の現場においても、売り手よしという従業員の働く環境に気を配っている企業の業績は好調である。残業もなく、定時退社の従業員は退社後の時間を自由に使うことができ、リフレッシュの自由時間を明日のエネルギーのために蓄えることが可能となり、労働の生産性を高める方向に作用する。ひいてはそのことが、業績の好調をもたらすという好き循環を生み出している例は多いのである。いうまでもなく、このような企業では、経営者と従業員との信頼関係は日々に再生産され、優れた人材が集まってくるという相乗効果が生まれることは自然の流れである。
 

代表的な事例として、「会社は社員を幸福にするためにある!」との信念を貫いて、平成20年には創業以来48年間増収増益を達成した伊那食品工業㈱を挙げることができる。経営トップの塚越寛氏は、著書の『年輪経営』(光文社、2009年)のなかで、珠玉の信念を披歴している。
 

すなわち塚越氏は、企業は年輪のように少しずつ大きくなっていけばよいのであり、そうした低成長の年輪経営が、企業の永続を可能にすると考えるのである。社員を大事に扱う経営が、年輪のように確実な成長を達成したのである。
 

一度に高利を求めず、薄利を着実に積み重ねていくという塚越氏の考え方は近江商人の三方よしの理念と通底している。現に、近江商人は営利について述べた家訓や遺言の中で、薄利について繰り返し言及している。

3 三方よし経営の系譜

450年の社歴を持つ最大手の総合寝具メーカー西川産業㈱の祖は、西川甚五郎家である。蒲生郡近江八幡の西川甚五郎家本宅には、江戸出店から年に二回、決算帳簿が送られた。毎回の帳簿の末尾には、必ず同じような趣旨の家訓が記されている。

文化4年(1807)12月の家訓は、次のようなことを述べている。縁あって一つ屋根の下で暮らすのだから、お互いに親しみ合いながら家業に精励すること。商品は品質をよく吟味して、「薄き口銭にて売りさばき」と、薄利で売ることを奨励している。さらに、たとえ品薄の時であっても「余分の口銭申し受けまじく候」と、割増金を取ってはならず、売り惜しみや買い置きなどの世間に害を与えるような行為を禁じている。
 

利益に対する禁欲的な姿勢は、社歴310年の総合繊維商社外与㈱に伝わる家訓のなかにもみられる。外与㈱の前身である近江国神崎郡五個荘の外村与左衛門家(外与)には、安政3年(1856)制定の「心得書」がある。この当時の外与は、近江商人の番付のトップに位置付けられ、江戸時代の最盛期を迎えていた。
 

「心得書」は、自家の問屋業における基本姿勢を共存共栄と規定している。すなわち、取引においては作為をせず、自然の成り行きを尊重する。物事の判断基準を長期的平均の見方におき、商いの利益を取るか、人の道を選ぶかの瀬戸際では、「永世の義を貫く」という人の道優先を宣言している。
 

このような立場は販売姿勢でも一貫している。取引相手の小売商の気配に応じて、時の相場の成り行きに任せて、損得に迷わずに売り渡すこと。売り手側の問屋が、安売りしたことを後悔するような取引であれば、小売商側に利益の出ることは間違いないのであり、それは双方にとって好都合なことと受け止めよ、と説く。「売りて悔やむこと、商業の極意、肝要にあい心得申すべく候」と、薄利で満足することこそ商いの極意であるというのである。
 

この条文の後には、目先の利に目がくんだ、売り惜しみや思惑取引は、天理に反し、家法に背く不実の取引であり、そのような思惑取引によって多少の利益が得られたとしても、取引の永続は望むべくもなく、厳に慎むべきであるという条項が続いている。

薄利の系譜は、明治になっても受け継がれた。平成23年に創業200年を迎えた、東証一部上場のツカモトコーポレーションの創業者である初代塚本定右衛門は、晩年に致富への道を問われて、次のように答えた。
 

「資産を築く特別な方法があるわけではない。ただ勤倹と正直あるのみである。ただその際に、片時も忘れてならないことがある。それは、得意先の儲けを手助けするつもりで、相手の立場を尊重すれば、それはやがて我が身に余沢となって返ってくるであろう」と語り、「お得意の儲けをはかる心こそ、我が身の富を致す道なれ」との道歌を詠んだ。二代目定右衛門も、父の後を承けて、「薄利広商」を座右の銘とした。
 

西川甚五郎家・外村与左衛門家・塚本定右衛門家のいずれの商いの理念にも共通するのは、正路の商いによる家業永続の姿勢である。正路の商いとは、まっとうに勤勉に働いた結果としての利益こそが、誰にもはばかることのない真の利益であるとの信念のもとに商いに従事することである。相場を張ったり、買い置きをしたりして、他人の難儀をかえりみないで得た利益は、家運長久をもたらさないことを弁えていた。
 

家訓のなかでも、欲心を刺激しやすい営利活動では、欲望を制御せず野放しにすれば、奢りとなり、いつか道に外れて、大きな禍を招くことになると諭している。富家の衰退は、奢りに発すると見なし、子孫の奢りを防ぐことが、成功した近江商人の家訓に込めたメッセージであった。


4 三方よし経営の現代的意義

近江商人の「三方よし」の理念の最大の特徴は、単に「売り手よし、買い手よし」という取引の当事者だけでなく、周囲の世間にも配慮した取引を重視した「世間よし」を取り入れていることにある。江戸時代からすでに、近江商人と呼ばれる人々は、「実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」という石田梅岩の思想の実践者として、共存共栄を自覚し、利を独占する商いの一人勝ちを認めなかった。彼らが、世の中あっての商いであり、商売は世の中全体を得意先として行うものであるという、商いの社会性に気づいていたのは、その商いが他国稼ぎであったことに由来する。
 

この「世間よし」は、現代のような経済のグローバルな展開や深刻な地球環境問題の下では、一層重要な理念となっていくであろう。ビジネスの社会性を自覚しないような企業に明日はないのであり、その意味で世間よしを取り入れた近江商人の三方よし経営は、決して過去のものではなく、これからの企業経営に示唆するところが大いにあるといえよう。