2012年2月25日土曜日

二代目塚本定右衛門の座右の銘「薄利広商」

初代塚本定右衛門教悦には、二人の息子がいました。嘉永4年(1851)に二代目を相続した文政9年(1826)生まれの長男定右衛門定次は、その実弟で万延元年(1860)に分家した天保3年(1832)生まれの次男粂右衛門(くめえもん)正之と協力し、呉服太物の卸売りを家業の中心にすえ、江戸時代に開店した京店につづいて、明治5年(1872)に東京日本橋伊勢町に東京店を開店させ、幕末維新の動乱期にも家業は隆盛でした。
その後の塚本家は、明治22年に塚本商社として会社組織を採り、26年に塚本合名会社に改組し、29年に小樽店を開くなど、商運は伸展しました。資本金100万円の株式会社塚本商店が誕生するのは大正9年(1920)のことです。
定次・正之兄弟の父親である初代定右衛門教悦は、徹底して得意先の利便をはかる対応こそ、利益の源泉であるとの信念を抱いていました。このような顧客満足を第一とする姿勢は、二代目の定次にも受け継がれたのです。
まず、明治維新という新時代に出会った定次は、それにふさわしい体制を築くために、明治2年正月に商いの基本姿勢を打ち出した「家内申合書」を制定しています。そのなかでまっさきに掲げられているのは、「家名相続して国恩を思う」という、次のような遵法(じゅんぽう)精神を説いた条項で

上下の船積み、他国の出稼ぎ、道中往還等については、水火盗難、或は世上の人気動揺候はば、仕来りの商売も成りがたく、迷惑いたすべくのところ、何国へ参り候ても、少しも滞りなく商いいたし候は、全く大政府の御蔭に候えば、御国恩の重き事、常々忘るまじく、せめては、時々仰せ出されの御規則をかたく相守り、我身を慎み、渡世(とせい)向きに精を出すべし

内容は、次のような文意としてまとめられます。自分たちのような商業従事者にとって、上り下りの船への商品の積載や他国への出稼ぎにおいて、その道中で水難火難や盗難などに出会ったり、世上不安であったりしたならば、これまで続けてきた商売も成り立たず、迷惑するところであるが、どこの国へ出かけても円滑に取引ができるのは、まったくもって明治政府の御蔭である。平和な世の中が維持されているその国恩を忘れないためにも、せめて政府から出る布令は厳守し、身を慎みながら仕事に精進すべきである。
戊辰(ぼしん)戦争が終結し、維新政府が統一政権となったばかりの時点で、はやくも平和回復を達成した政府の功績を、国恩という表現で大いに称賛していることは、塚本家が幕末の動乱で京都店を焼失した災難が下地になっていると思われ
第二項の「()(しゅ)の利益を(はか)る」のなかには、以下のような一節があ

 一 旅方においては、御得意先のため()(くち)のよろしき()呂物(ろもの)を大山にして、売りきれ物なきよう注意し、御注文の節は、(いささか)たりとも捨置かず、はやく御間に合せ申べし、御店へ参上の時、行儀正しく御店中をはじめ出入方迄も厚く敬ひ申すべく候、万一間違事出来候とも、高声に争はず、その時の重立たる人に談しあひ、不都合これなき様に計うべし、左候えば、天理として自然に商ひ高も増し、随て利益も多かるべきに付、能々(よくよく)相心得べし

行商先では得意先のために品質の良い商品を十分に準備して、品切れのため注
文に応じられないことのないように配慮し、たとえ少量の注文でも迅速に対応すること。得意先のほうから来店した場合は、店員はもちろん、出入りの職人も丁寧に礼をつくさねばならない。万一、商談中に行違いがあっても声高に言い争わず、重職の店員と相談して穏便に処置すること。そうすれば、売上高も増加して自然と利益も増えるものである。
ここでは、顧客本意の商いをしていると、結果として利益の増加につながる
のであり、徹底して顧客満足を追究することの大切さが説かれています。父親の商いの真髄を継承したこの精神に基づいて、定次は座右の銘を「薄利(はくり)広商(こうしょう)」としたので

2012年2月23日木曜日

初代塚本定右衛門の道歌

 振袖・浴衣などの着物類やアパレル、ユニフォームなどを扱う総合繊維商社
の㈱ツカモトコーポレーションは、東証一部上場企業です。文化九年(一八
一二)を創業年とする老舗企業であり、近江商人の歴史館である東近江市の(じゅ)
(しん)(あん)運営しています。
 業祖は、塚本定右衛門。幼名は久蔵、法名を定悦と号しました。寛政元年(一七
八九)に、近江国神崎郡川並(がわなみ)(現、東近江市五個荘)の生まれです。ささやか
な布洗いを業とする父浅右衛門・母「のゑ」の五男三女のうちの、三男でした。
 幼少の頃から機敏で利発であり、感受性が豊かであったといわれます。たとえ
ば、ある時、富豪の家を訪れた際、富家の主人であるにもかかわらず自ら薪を
納屋に運ぶ姿に触発され、帰宅後ただちに鍬を取って畑を耕しに出向いたとい
う挿話が遺されています。
 久蔵は一二歳で父の浅右衛門を亡くしました。その臨終の席で、将来を期待され
ていた久蔵は、父から「慎みに努め、人道を守り、成長の後は立身して、父母
の名前を顕すことこそ孝養の第一である」との遺戒を受けたのです。父の遺したこの
言葉が、久蔵の生涯を貫くバックボーンとなりました。
 文化四年、一九歳の久蔵は、満を持して金五両を元手に、京都から取
り寄せた高価ながら携帯に便利な化粧品の小町(こまち)(べに)を仕入れて東国への持下り
商いに出かけました。以下は、晩秋に下野国(栃木県)の芦野宿まで足を伸ばし、
止宿した時の逸話です。
 奥州街道のこの宿駅の旅籠にも、宿泊者への給仕人と売春婦を兼ねた飯盛り
女がいました。旅籠の亭主は、年若い行商人の久蔵を見てしきりに遊興をすすめ
ましが、父親の遺言を胸に秘めて行商を始めたばかりの久蔵は、亭主の熱心な誘い
を固辞したのです。すると立腹した亭主は、腹いせに薄い布団を与えました。晩秋の
霜気に震えながら夜を明かした久蔵は、次のような道歌を詠みました。
  
わかきとき遊びに心あるならば
     のちのなんぎとおもひしるべし

 後年、この時の紅売り姿を絵に画いて軸装し、創業の辛苦、商いの基本を忘
れないようにとの自戒をこめて、正月などの佳節の床飾りとしました。
 久蔵は二四歳となった文化九年、甲斐国甲府柳町の土蔵を借りて資本金一二
〇両で小間物問屋「紅屋」を開店しました。甲府に出店を開いたのは、江戸につな
がる重要な街道である甲州街道の終点であり、甲斐絹の産地でもあるという有
力地方都市であることに加えて、高価な小町紅がもっともよく売れたところで
もあったからです。
 文政一二年(一八二九)三月、四一歳となって厄年を迎えた久蔵は、家業の
商いも基礎が固まり、これから大いに乗り出そうという時に、「一心定まる」と
いう意味で、代々の襲名となる定右衛門に改名したものと思われます。同時に、
店員への訓戒書である「家内之定」を制定しました。
 全八カ条からなる内容は、公儀の法度を守ることという定例の形式で始まっています。
次いで、銘々の部署で昼夜油断なく主従ともに励み、立身を心掛けること。た
とえ上役になっても初心を忘れず、奢りを慎むこと。縁故者に内々で便宜を図
ることを厳禁する。血気にまかせて派手な商いをしないこと。常に傍輩の和合
を重んじ、心掛けること。旅宿においても、少々のサービスの手落ちは堪忍し
て神妙に旅すること、また高声の雑談は慎むこと。飲酒はどれほどまでという
制限はないが、平常心を失わないように適量をたしなむこと。
 末文では、これらの教えを守って和合して家業に励めば、立身出世は疑いな
く、老後も安泰であり、忠孝の道や国恩に報じることにもなるので、このよう
に家内の掟を定めるのであると記しています。
 晩年の定右衛門は、致富の道を訊かれて次のように答えています。致富に到る
奇策というものはない。ただひたすら勤倹に努めることである。だが、商業上
において片時も忘れてならないことがある。それは、第一に得意先の利益を図
ることである。そうすれば、おのずから自家の繁昌は間違いないと語ったとい
われます。この信条を定右衛門は、次のような道歌に詠んでいます。

  おとくいのもうけをはかる心こそ
        我身の富をいたす道なれ

2012年2月21日火曜日

近代経営への芽生え―近江商人の妻の役割
近江商人の妻という場合、象徴する道具は(きぬた)でしょう。砧は麻や木綿などの目の粗い織物を、堅いケヤキなどの木の台の上に置いて木槌(きづち)で打って、柔らかくしたり光沢を出したりするために使う道具です。砧を打つことは、古来女性の夜鍋仕事でした。
今となっては、見かけることもない道具であり、聴くこともできない音ですが、俳句では秋の季語となっています。秋の夜長に響く「トコトン、トコトン」の哀愁をともなった音は、長い旅に出た夫の身を案じつつ孤閨(こけい)を守る妻の「想夫恋」の感がありました。
 近江商人の妻は、多忙であり、重要な役目を負っていました。子供の養育から入店した奉公人の世話、出店への食品・衣料品・寝具等の発送など、行商や出店巡りの夫の留守宅を預かるために、家政全般を取り仕切ったのです。ときには、奉公中に不始末をしでかし、一旦は解雇を通告されて帰郷した奉公人を訓戒し、更生させ、再勤務を仲介する場合もありました。また、一般の家庭の子女を預かって一人前の女性に教育するため、(しお)()みと称される嫁入り前の短期間の行儀見習いの指導を受け持つこともあったのです。
妻の役割を、総合商社伊藤忠・丸紅の基礎を築いた初代伊藤忠兵衛の妻、八重(やゑ)の例で見てみましょう。犬上郡四十九院(しじゅうくいん)村の藤野惣左衛門の長女として、嘉永年(一八四九一一一四日に生れた八重(幼名、幸)は、慶応年(一八六六)に一八歳で近村の犬上郡八目(はちめ)村の(もち)(くだ)り商の忠兵衛に嫁ぎました
八重は、ずっと本宅を守っていたので、その仕事は多岐にわたりました。大阪の出店で使う米・麦の仕入と精白、味噌の製造、沢庵・梅干の漬込み、茶・たばこの選定と、これら物品の出店への発送も担当したのです。夏冬には、大勢いる店の丁稚への襦袢(じゅばん)・帯・前掛けの選定と仕立て、夏季の布団の洗濯、綿の打ち換え、仕立て直し等、年中多忙な日々を過ごしました。
体付きは、当時の夫人としては大柄で、強健であり、性格は清純で強い意志力を持ち、浄土真宗の篤い信者でした。教育としては、寺子屋での読み・書き・算盤を習ったのみでしたが、算用数字(0123)の書き方と計算を夫の忠兵衛から習得し、よくハガキを書いたそうです。昭和二七年四月二九日に一〇三歳で亡くなりましたが、没する前年に表敬訪問した県知事を接待した際は、もてなしの道具類一切を蔵から出す手順を指示するなど、晩年まで意識明瞭であり、五〇歳台にも成った息子の二代目忠兵衛を叱正する気丈さも持ち合わせていました。
 このように近江商人の妻は、留守を預かる主婦や子供の母であること以上に、事業のパートナーであったといえます。二〇〇年以上の社歴のある老舗企業が、日本には三〇〇〇社強あり、世界の四割を占めています。江戸時代の商家経営のうちに近代経営への芽生えがあったからであり、転身を可能としたのは代々の日本女性の献身も大きな要因でした。

2012年2月19日日曜日


近江商人の幼児教育論

天保年間(一八三〇年代頃)の近江国神崎郡川並に、奥井(おくい)金六(きんろく)、号を豊章と名乗る近江商人がいました。兄の奥井新左衛門は、才気敏捷で呉服を京阪で仕入れて信越方面へ販売して家産を大いに増やす手腕を示しました。業務の余暇には、和漢の書物に親しみ、とくに医薬知識に造詣の深い紳商でした。

 弟の金六豊章もまた、孝慈勤倹であり、親に仕え、兄を助け、子を慈しみ、しかも商才がありました。天保の改革の一環として奢侈禁止令が布かれ、呉服物の使用が禁止されたのですが、この極端な禁令はいずれ緩和されるとみた金六は、人を派遣して福島県川俣(かわまた)の平絹を買い集め、米沢・木曾を経て京都に運び込んだのです。折柄京都では衣類に関する禁令は緩み、しかも絹布の価格は品不足のため騰貴したので金六は大利を得ることができました。

 金六はこのように商機をみるに敏であっただけではありません。天保四年の三七歳のときに、姉妹の心得にもなればと思って記したという、幼児を中心とした教育論を書いているのです。それが「豊章教訓記」です。

 その文頭で、「子ほどの愛はなし、その子に宝をゆずる事こそ願わしけれ」と述べています。つづいて子供に譲る宝には、二種類の宝があると次のように記しています。

 第一の宝は、明徳性名の本心から発する孝養をつくそうとする心である。この本心は、とくに他から求めて子に与えるものではなく、生まれながらに備わっているものである。だから、大事なのは孝養の心を失わせないようにすることである。

 第二の宝は、官禄財宝金銀田畑である。これも結構な宝ではあるが、本心の第一の宝あってこそ意味のある宝であるから、二番目の宝ということになる。        

本心という第一の宝を失えば、我が身を失い、家を失い、先祖の立派な業績に泥を塗ることになる。身を失うまでに至らなくても、いろいろと不幸せのできるものである。こうしたことを成人となってから意見をしても遅すぎるので、子供のうちに教えることが大事になってくるというのです。

 金六は、幼少の時期の教えで大きな影響を与えるのは、父母や乳母であり、その心の持ち方や気立てから発する教え諭しが最根元であるといい、小児に対して大人がしてはならないことをいくつかの箇条に書き出しています。

 たとえば、子供に成人のような振舞いを要求すれば、心のちぢこまった者になることが多く、大人が他人の見ているところではいつもと違って言動を飾るようなことをすれば、子供に人を偽る心を芽生えさせることになる。

 あるいは、兄弟姉妹が揃ったときに一人は我が家の子、他の子はわが家の子でなく誰の子か、拾ってきた子かなどと大人が戯れに語るのは、子供の心に争いや嫉妬心を引き動かすことになる。

 さらに、大人が、人には礼儀正しい態度を持する礼容のあることを弁えず、日常的に衣服髪形がだらしない恰好でいることは、子供に不行儀や無礼を教えることになる。

 このように金六は、今日でも大人にとって耳の痛い子供に接する際のべカラズ集を書き連ねていますが、大切なことは、言葉よりも行為や行動で教えることであると次のように述べています。「子を教ふるに言葉少なに身を以って教ふべし、我が身の職分を励み勤べし」と語るのです。老若男女とも、それぞれが自分の職分や持前を守りさえすれば、家国は治まるものであり、そうすれば、「もののあわれ」を知り、別に悪念邪念は生じないと述べています。この辺りから、金六の言は、成人に向っての次のような発言に移っていくのです。

 すなわち、何時までも世の中は変わらず、平穏無事であり、変事は他人の身の上ばかりのように思い、我が身の上には生死は無関係と思うのは、衣食に不自由しないことをいいことに、うかうかと暮らすからである。近親の死に会って初めて行く末悲しく、越し方懐かしく思われるのは、飢えてはじめて食事の楽しみを知るのと同じことである。人生では、人の死や難事が付き物であり、明日のことは知れないものだから、常々から変事に備えておけば、人生は楽しく味わい深いものとなる。

 ここにいたって金六の幼児教育論は、「もののあわれ」や「無常」という人生観から発するものであったことを知ることができるのです。

 近江大店の店員養成と人物評価

 
 

  近江商人の奉公人制度は、在所登り制度と呼ばれます。それは、近江店の奉公
人のほとんどは近江の出身者であったので、奉公中に在所、すなわち故郷の近
へ何回登ったか、帰郷した回数が重要であり、登りを重ねることと店での昇進が
結びついた制度でした。
 江戸時代の奉公人は、地縁・血縁を頼りに保証人を立てて入店を申込み、許
されると、奉公人請状を差し入れました。この請状には、本人の名前・年齢・親
元・宗旨・保証人名が書き込まれ、入店誓約書であると同時に身元引受状の性
をもっています。内容のほとんどは、奉公人の側の守るべき条項や約束が盛り込
まれたものです

 店員の一般的な出世コースは、丁稚→手代→番頭→支配人→別家というもので
した。一二歳前後で入店した者は丁稚と呼ばれ、家内雑役に従事しました。一五
歳頃に半元服となり、額に角入れをして、名改めが行なわれ、給金も出るように
なります。
 入店後五年位で、五十日ほどの初登りと称するはじめての帰省を許され、勤
状態の良い者は元服して手代に昇進します。手代は販売・接客・金銀鑑別・符牒
(商用暗号)を覚え、業務一般を見習うのです。二度登り、三度登りと登りを繰
り返しながら、主に仕入を担当する番頭に昇格し、首席番頭が支配人の地位に就
きます。

 支配人を三年~五年務めると、三五歳位で宿入りといわれる別家となります。
別家にも独立して商いをおこなう独立別家と、独立別家よりも上格の日勤別家が
ありました。
 以上は、子飼い店員の在所登り制度の一般的な例であり、入店から別家となる
まで二十数年を要する長い奉公生活でした。現代流でいえば、OJT(オン・ザジョ
ブ・トレーニング)という配置転換をおこないながらの店員養成ですが、途中の
挫折者は五割を超えるという、厳しい人材選抜制度でもありました。

 人物評価においては、間に合う、間に合わないということ、つまり機敏で能
があるか否かが重視されたものです。能力評価の事例をいくつか挙げてみましょ
う。店拡大発展期におこなわれた、中途採用者の評価でも次のように述べられ
ています。

 年上の者(中途入店者)、後より参り、早く間に合い候ゆえ、先に参り候者
(子飼い者)より上の段にあい成り候ことこれ有り、この儀決して論ずべからず
                  (外村与左衛門家「作法記」安政三年)

 中途入店者の能力が高くすぐに役立つので、子飼い店員の上席になっても、
れこれ論じてはならないというのです。反対に、間に合わない者に対しては容赦
なく厳しい評価が下されました。彦根の関東出店に勤務する富吉という店員の場
合、「一六歳の年、初登り頃にも未だ間に合い申すべき人物にあい見え申さず、
はなはだ鈍き者にこれ有り候」と、手厳しい勤務評定がおこなわれています。

 中井源左衛門家の「家方要用録」(年紀不明)では、店員の賢愚の見分け方に
ついて、「大体一七、八歳にて賢愚あい分るべく候へば、このところにて処置い
たすべく候」と述べ、五年ほど育ててから資質の賢愚を見極めようとしています。

 しかし、万事が能力主義一辺倒ということではありませんでした。外村与左衛
門家の「心得書」(安政三年)は性格を重視して次のように述べています。

 人並の働きこれなき者は、尚々心正しくいたすべし、自然その志に感じ、人に
 おもわれ 候えば、重き役にも趣くなり

 一人前の力のない者でも、心栄えが正しければ、周りの人の信頼を得て、やが
て重要な役にも就くことができる、と諭していま。反対に、才知のみある人物を
警戒して、「いかほど才知これ有り候とも、薄情実意これなき者へ支配申しつけ
まじく、このところ専要のこと」(中井源左衛門家「家方要用録」)と、人格の
ともなわない才知だけの人間を店方トップの支配人役に就けてならないと念を押
していることをみても、能力とともに人柄が重視されていたことが分かります。

2012年2月18日土曜日


 近江大店の後継者の育成


 資産を築いた近江の大店でも、家業の永続は大きな問題でした。そのためには後継者をいかに育てるか、ということが重要だったのです。娘に有能な子飼いの奉公人をあてがう場合もあったが、それは後継者に人を得ないときであり、通常は息子が後継者の第一候補でした。それだけに、将来は大店の当主となる子弟の教育については、家訓でも明文化されていたものです。

 京都に本店があり、南部盛岡に出店のあった小野善助家の享保一三年(一七二八)に制定された家訓の「覚」でも、男子の商業訓練についての次のような一項を設けています。

 

 この家にて出生つかまつり候男子、十五歳になり候は、南部店に差し下し、手代同前に使い、商い仕習わせ、二十四五までも差し置き申さるべく候、成長つかまつり候時分、京に差し置き、世上の(おご)りを見習わせ悪性者になり候こと、不便に候あいだ、必ず南部へ差し下し、大方心入りもよくなり候節、呼び上せ申さるべく候



 小野家に生まれた男子は全員、一五歳になったら、奥州の南部店に派遣して、

奉公人の手代と同じように商いを見習わせ、二四~二五歳になるまで修行させ

るという取り決めです。青少年期にむざむざ繁華な京都にとどめておいては、

奢りの気風を見習い、性悪者になるだけであるから、必ず南部店で10年余を過

ごさせ、誰の目にも心にかなう人間に成長してから京都に呼び戻すことに決め

られているのです。

 また、安政三年(一八五六)の外村与左衛門家の「作法記」では、主人の(せがれ)

を小野家の場合よりももっと早く商い修行に出し、その後に当主に納まるまで

の行程を次のように定めています。



 拾弐歳より店へ出、平の子同様に見習い致すべきこと、早く出し候えば、当人は思いのほか苦労に思い申さず、これより家族いよいよ尊敬いたすべく、かつ家族の勤め方を思いやり、人の善悪を察する基なり

 拾六歳元服 これより若旦那と申すべきこと、家督までは勤番役の下につけ、格式は例頭、別宅の間なり

 弐拾五才 家督、これより本主人、両親隠居いたすべきこと、但し後見

  

 主人の息子は、一二歳になったら出店に配属し、普通の子供と同様に見習い

修行をさせることになっていることが分かります。その理由を、年少の頃から

店に出れば、本人は修行をそれほど辛く感じないからというのです。また、少

年の時期から苦労を身に着けて育つので、思いやりや人物の善悪を見分ける眼

力が着くと判断しています。

一六歳で元服して若旦那となり、席次は別宅の次の席を占めると規定されて

います。そして二五歳で主人の座に着き、両親は隠居して後見人になることも決められています。若年時に苦労することによって、当主の自覚と資格を得るという考え方が説かれているのです。

 ただ、このように幼年のときから召使同様に働かせると、本人が当主となっ

た後、奉公人達のなかに主人を軽んじる者も出てくる恐れがあります。その場

合は、店をあずかる支配人や後見人が指図して矯正することを周到に定めてい

る家訓もあります(丁子屋小林吟右衛門家「示合之條目」)。

 当主になった後、主人に私欲のために資産を危うくする振舞いがあれば、奉

公人から弾劾をうける場合がありました。山中兵右衛門家の四代目は家業に身

を入れなかったため、文政一二年(一八二九)二五歳のときに、店支配人をは

じめとする奉公人から、改心しなければ、全員退店するという通告をうけるに

いたりました。これなども、奉公人の諫言による当主の強制的訓育といえまし

ょう。

 そして、店関係者一同から当主に改心の見込みなしと判断されれば、当主を

罷免するという押込め隠居の規定が、近江商人の家訓には盛り込まれていまし

た。

2012年2月17日金曜日


矢尾喜兵衛の所感(四)

商家の主人の心構えと子弟教育

                                   末永國紀

近江商人四代目矢尾喜兵衛によって嘉永六年(一八五三)に著された「商主心法 道中独問答寝言」は、文字通り商家の主人の心構えを箇条書き風にまとめたものです。そのなかには、子弟養育に際しての主人の言動や態度についての心得が含まれています。今回は、奉公人を育てるときの主人の振る舞いや、奉公人への接し方、指導について述べられた箇条を拾い上げてみましょう。

 先ず、主人には全店の師表となることがもとめられています。次のような表現です。

 一 主人たる者、家内の者より一割増しの粗食、二割増しの粗服、三割増しの慎み、物の冥加をよく弁え、すたる事を恐れて家内へ示し、薄欲にして心正しく身を軽く、質素にして色欲薄く万事慎み深く、仁恵の心を本として、常に蔭善の志を専要とし、我に心に叶わざる事は天の赦したまわざる事と覚悟し、心に思わざる幸ひ来る事は天の与へたまはる事と拝受し、諸事天に任せ、我意を用ひざる時は、天必ずあしく御(はから)ひなく、順道に守らせたまふらん。

主人は率先して粗衣粗食に甘んじて、慎み、仁恵と陰徳善事の心構えの必要なことが説かれているます。また、倹約を守り、始末して物のすたらないように心がけるのは良いが、そうかといって、すべてを勘定詰めにして簡略にするばかりではこれまた良くない。「商人の身分たりとも、多人数を扶持する身は諸事倹約のなかにも公の心持ある事をよしとするなり」と述べ、多くの奉公人を使う大家の商家の主ともなれば自家のそろばん勘定のみからする倹約ではなく、公という世の中全体から見ての倹約の心持をもつことが必要と述べているのです。そして、身を慎むということにおいては、子孫と手代の目がもっとも怖いものであり、この二つの目を常に意識し恐れていれば、自然に身の慎みになるとも諭し、その上で大家の主人であっても、日課としての勤めは先祖親御への奉公と思って大切にしなければならないと教えています。

 このように主人に率先垂範をもとめながら、子弟教育においては、まず奉公人をまっとうな人間に育てることこそ主人の心得であると、次のように述べています。

 一 商人の主人たる者、他人子を抱え給金賄ひ等出すといへども、これ我が渡世の上なれば尤もいわたり有るべき筈の事なり。我愛子も他人の愛子も親として子の愛かわる事なし、無理非道の事は申すに及ばず、時において辛抱安からずといへども、猶行く末の一大事のみ思ひやり、偏に人の人たる処へ至らしむる事、主人たる人の第一心得なり

 商家の主人が、他家の子供を召抱えて給金や賄を与えるのも生活のためである以上、奉公人を我が子と同じ様に愛し、労わりの心がなければならない。非道の扱いをしないのは当然であり、赦せないようなことがあっても簡単には見捨てずに、辛抱強く人の道を守らせ、一人前に育てることが主人としての心得であるというのです。

さらに、子弟養育の際、その能力や人柄の長短を弁えて指導することの必要なことを「人の才も道具類と同じことにて、不得手の事に用ひその者の不能を責めるは、主人支配人たる者の不明と言ふものなり」と、能力の得手と不得手を把握して育てることの大切さや、「店方において子供を抱へ世話するにも、いたづら気の者と内気の者とその差別をよく考へて仕ふべし」と、人物の性格に応じて接することの重要性も指摘しています。
商家の主人は、率先して範を垂れながら、能力や人柄に差等のある奉公人に、愛情を持って一人前の商人に育て上げることを力説しているのであり、その説くところは、現代においても何等の遜色もない、至極まっとうな子弟教育論といえます。

2012年2月15日水曜日


矢尾喜兵衛の所感(三)正直と薄欲

 

およそ人間の欲望ほど際限の無いものはないでしょう。欲望ゆえに身を焦がし、それが極端になると破滅にいたることは、個人であれ、家であれ、国家であっても同じことです。商いは、営利を目標とするだけに、絶えず欲心を刺激される状況に会することが多いのも事実です。それは、商いが常に欲望にもとづく危険に曝されているということでもあります。

 商家の願いは、家業の永続ということにあります。日々の生活においては、欲心をかきたてる利益を目指しながら、なおかつ家の永続を祈るには、欲望のコントロールが必要になります。そのコントロールが外れた結果としての奢りを防ぐために、勤勉・始末が強調され、一時の損得に一喜一憂しない経営の長期的視点が重視されるのです。

 四代目矢尾喜兵衛は、嘉永六年(一八五三)秋に記した所感のなかで、家業永続の基としての考えを次のように述べています。

 先ず、時世の風潮を批判しながら、農工商それぞれに本来の職分を尽すことが国益に叶い、家内長久の基になると主張しているのです。昨今の世の習いは、金儲けさえすれば身代は良くなって家も長久するように思っている人が八~九割もいるが、しかしこれは間違いであり、全くそのようなことはない。

 百姓は、世間のため国のためになる有用な作物をたくさん作り出すからこそ天職であり、それが冥加というものである。欲得から初茄子一つに金一分というような高価なもの、奢侈にかかわる高値の品物ばかり作り出す農家は農民の天職を汚すものである。百姓の本来の冥加を弁え、耕作を大切にする農家は子孫も長久するものである。

 職人も国家の実用に役立つ品を作り出すように努めるならば、天意にも冥加にも叶うであろう。それなのに、無益な何の用にも立たない奢侈の者が玩ぶだけの高価な品を作り出すのは、たとえ人目を驚かすほどの腕の職人であっても、人々を奢侈に趣かせるだけであり、安価な国家の役に立つ品物を作る国用の職人にはるかに及ばないものである。

 商人については、二種類に分けて論じています。国家の実用の品を商売する者を上商売人と呼び、そのような商人は利も薄いが天地の意に背かない商家なので、子孫繁昌して家内長久のきっかけになるような商人である。しかし一方、百人の商人中八〇人は、何の役にも立たない無益の品を売り出す無国用の商人である。なかには、世上の人々を奢侈に引き入れる商人や、善人を不善人にするような商人もいる。すなわち、人を煽てて私欲に耽る物好きに仕立て、詰まらないものに大金を投じさせ、それを誉めそやしてますますへんてこな人間にしてしまうような商人である。

 元来、商人というものはお客から商品の価格に応じてお世話賃として口銭をいただき、そのお蔭で一家や奉公人を養い育てているのである。それだから、品物をよく吟味し、もし品質が悪ければ値段を下げて口銭もできるだけ薄く売り、一度入来したお客が喜んで再訪したくなるように仕向けるのが大事であり、正直と薄欲の二つを常に忘れないようにすることが肝要である。

 このように喜兵衛は述べて、日常的に利益に接する商家であるがゆえに、正直ということと薄い欲心ということを心掛けることによって、欲望をコントロールし、家業の永続を図ったのです。