2012年2月14日火曜日


矢尾喜兵衛の所感(二)店主の石門心学修養

                                  

四代目矢尾喜兵衛の著した「商主心法 道中独問答寝言」は、嘉永六年(一八五三)に叙述されたものです。体裁は、表題にあるように、四代目が道中の合間に、店主の心構えについての想念を格言風に記したものからなっています。自ら「寝言」と謙遜し、「未タ次第不撰」と断っているように、重複もあり、文章は前後未整理です。すべて一つ書き、すなわち箇条書の形式を採り、全部で三八六カ条。

内容の特徴は、家の永続を念頭に商家の当主の振る舞いに関する事柄が記されていることです。なかでも正直と始末倹約を説き、その反対の奢侈(しゃし)吝嗇(りんしょく)を戒めた箇条には、石田梅岩を創始者とする庶民教学としての石門心学への深い傾倒を窺うことができます。

例えば、以下のような文言です。「人の物は人のもの、我物は我ものと、かたくする人は諸事不義理なし」、「奢侈と吝嗇は、表黒白の相違見ヘて、元同根也、おごる者は必しわし、しわき者は必おごる、これ小人の甚しき也」、「始末倹約して出来たる金子は、身代の大黒柱、但し倹約と簡略と吝嗇と此三ツを弁ふべし」、「人に物を借る事を苦労に思ひ、何道具物にても曲らさるやう、筋目形りに取置する人は、大直人也、懇意にして益あり」、「ものの捨らさるやう始末よくする事は、小量の癖と思ふは、物種壱升蒔て壱升実のり、壱斗は壱斗、壱石は壱石と、蒔種数と実のり数と同し事に思ふ道理也、物の冥加を知らざる心得なり、ただ金儲けさヘすればいつ迄も大身代と思ふ時は、二代目より必ず衰微に及ぶもの也」、「正直は大浄清潔白の元手也、邪曲ハ不浄清汚穢の元手也」、「始末倹約は、身代の養生、大黒頭巾の下繕ひ」、「世の中にも勘定詰の始末はする人あれと、冥加の為の始末をする人、至って稀也」

 これらは、正直と始末倹約にかかわる事柄を述べていると解されます。石門心学では、実践道徳としての根本を正直においています。経済社会は、所有関係と契約関係が尊重されなければ成立しません。そのために、「ありべかかりの正直」、ありのままの正直が最重視されるのです。

石田梅岩は『倹約斉家論』のなかで、「天より生民を降すなれば、万民こと/\天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本私欲なきもの也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物。貸たる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私なく、ありべかゝりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。我願ふ所は、人々こゝに至らしめんため也」と述べているように、人々を正直の心に立ち返らせることを眼目に道を説きました。

さらに、正直の心を取り戻すためには、すべてにわたって貪らずに倹約を身につけることであると説くのです。倹約は、物の効用を生かし、人を生かすことになるのであり、人に迷惑をかけない、労させないという意味での正直につながるとしたのです。正直と倹約は、石門心学の経済合理主義の実践項目でした。

 上にに掲げた四代目喜兵衛の記した正直や始末倹約の文言に、石門心学の色濃い影響がみてとれ、喜兵衛が日頃から石門心学によって修養を積んでいたことを知ることができるでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿