2012年2月19日日曜日


近江商人の幼児教育論

天保年間(一八三〇年代頃)の近江国神崎郡川並に、奥井(おくい)金六(きんろく)、号を豊章と名乗る近江商人がいました。兄の奥井新左衛門は、才気敏捷で呉服を京阪で仕入れて信越方面へ販売して家産を大いに増やす手腕を示しました。業務の余暇には、和漢の書物に親しみ、とくに医薬知識に造詣の深い紳商でした。

 弟の金六豊章もまた、孝慈勤倹であり、親に仕え、兄を助け、子を慈しみ、しかも商才がありました。天保の改革の一環として奢侈禁止令が布かれ、呉服物の使用が禁止されたのですが、この極端な禁令はいずれ緩和されるとみた金六は、人を派遣して福島県川俣(かわまた)の平絹を買い集め、米沢・木曾を経て京都に運び込んだのです。折柄京都では衣類に関する禁令は緩み、しかも絹布の価格は品不足のため騰貴したので金六は大利を得ることができました。

 金六はこのように商機をみるに敏であっただけではありません。天保四年の三七歳のときに、姉妹の心得にもなればと思って記したという、幼児を中心とした教育論を書いているのです。それが「豊章教訓記」です。

 その文頭で、「子ほどの愛はなし、その子に宝をゆずる事こそ願わしけれ」と述べています。つづいて子供に譲る宝には、二種類の宝があると次のように記しています。

 第一の宝は、明徳性名の本心から発する孝養をつくそうとする心である。この本心は、とくに他から求めて子に与えるものではなく、生まれながらに備わっているものである。だから、大事なのは孝養の心を失わせないようにすることである。

 第二の宝は、官禄財宝金銀田畑である。これも結構な宝ではあるが、本心の第一の宝あってこそ意味のある宝であるから、二番目の宝ということになる。        

本心という第一の宝を失えば、我が身を失い、家を失い、先祖の立派な業績に泥を塗ることになる。身を失うまでに至らなくても、いろいろと不幸せのできるものである。こうしたことを成人となってから意見をしても遅すぎるので、子供のうちに教えることが大事になってくるというのです。

 金六は、幼少の時期の教えで大きな影響を与えるのは、父母や乳母であり、その心の持ち方や気立てから発する教え諭しが最根元であるといい、小児に対して大人がしてはならないことをいくつかの箇条に書き出しています。

 たとえば、子供に成人のような振舞いを要求すれば、心のちぢこまった者になることが多く、大人が他人の見ているところではいつもと違って言動を飾るようなことをすれば、子供に人を偽る心を芽生えさせることになる。

 あるいは、兄弟姉妹が揃ったときに一人は我が家の子、他の子はわが家の子でなく誰の子か、拾ってきた子かなどと大人が戯れに語るのは、子供の心に争いや嫉妬心を引き動かすことになる。

 さらに、大人が、人には礼儀正しい態度を持する礼容のあることを弁えず、日常的に衣服髪形がだらしない恰好でいることは、子供に不行儀や無礼を教えることになる。

 このように金六は、今日でも大人にとって耳の痛い子供に接する際のべカラズ集を書き連ねていますが、大切なことは、言葉よりも行為や行動で教えることであると次のように述べています。「子を教ふるに言葉少なに身を以って教ふべし、我が身の職分を励み勤べし」と語るのです。老若男女とも、それぞれが自分の職分や持前を守りさえすれば、家国は治まるものであり、そうすれば、「もののあわれ」を知り、別に悪念邪念は生じないと述べています。この辺りから、金六の言は、成人に向っての次のような発言に移っていくのです。

 すなわち、何時までも世の中は変わらず、平穏無事であり、変事は他人の身の上ばかりのように思い、我が身の上には生死は無関係と思うのは、衣食に不自由しないことをいいことに、うかうかと暮らすからである。近親の死に会って初めて行く末悲しく、越し方懐かしく思われるのは、飢えてはじめて食事の楽しみを知るのと同じことである。人生では、人の死や難事が付き物であり、明日のことは知れないものだから、常々から変事に備えておけば、人生は楽しく味わい深いものとなる。

 ここにいたって金六の幼児教育論は、「もののあわれ」や「無常」という人生観から発するものであったことを知ることができるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿