2012年2月23日木曜日

初代塚本定右衛門の道歌

 振袖・浴衣などの着物類やアパレル、ユニフォームなどを扱う総合繊維商社
の㈱ツカモトコーポレーションは、東証一部上場企業です。文化九年(一八
一二)を創業年とする老舗企業であり、近江商人の歴史館である東近江市の(じゅ)
(しん)(あん)運営しています。
 業祖は、塚本定右衛門。幼名は久蔵、法名を定悦と号しました。寛政元年(一七
八九)に、近江国神崎郡川並(がわなみ)(現、東近江市五個荘)の生まれです。ささやか
な布洗いを業とする父浅右衛門・母「のゑ」の五男三女のうちの、三男でした。
 幼少の頃から機敏で利発であり、感受性が豊かであったといわれます。たとえ
ば、ある時、富豪の家を訪れた際、富家の主人であるにもかかわらず自ら薪を
納屋に運ぶ姿に触発され、帰宅後ただちに鍬を取って畑を耕しに出向いたとい
う挿話が遺されています。
 久蔵は一二歳で父の浅右衛門を亡くしました。その臨終の席で、将来を期待され
ていた久蔵は、父から「慎みに努め、人道を守り、成長の後は立身して、父母
の名前を顕すことこそ孝養の第一である」との遺戒を受けたのです。父の遺したこの
言葉が、久蔵の生涯を貫くバックボーンとなりました。
 文化四年、一九歳の久蔵は、満を持して金五両を元手に、京都から取
り寄せた高価ながら携帯に便利な化粧品の小町(こまち)(べに)を仕入れて東国への持下り
商いに出かけました。以下は、晩秋に下野国(栃木県)の芦野宿まで足を伸ばし、
止宿した時の逸話です。
 奥州街道のこの宿駅の旅籠にも、宿泊者への給仕人と売春婦を兼ねた飯盛り
女がいました。旅籠の亭主は、年若い行商人の久蔵を見てしきりに遊興をすすめ
ましが、父親の遺言を胸に秘めて行商を始めたばかりの久蔵は、亭主の熱心な誘い
を固辞したのです。すると立腹した亭主は、腹いせに薄い布団を与えました。晩秋の
霜気に震えながら夜を明かした久蔵は、次のような道歌を詠みました。
  
わかきとき遊びに心あるならば
     のちのなんぎとおもひしるべし

 後年、この時の紅売り姿を絵に画いて軸装し、創業の辛苦、商いの基本を忘
れないようにとの自戒をこめて、正月などの佳節の床飾りとしました。
 久蔵は二四歳となった文化九年、甲斐国甲府柳町の土蔵を借りて資本金一二
〇両で小間物問屋「紅屋」を開店しました。甲府に出店を開いたのは、江戸につな
がる重要な街道である甲州街道の終点であり、甲斐絹の産地でもあるという有
力地方都市であることに加えて、高価な小町紅がもっともよく売れたところで
もあったからです。
 文政一二年(一八二九)三月、四一歳となって厄年を迎えた久蔵は、家業の
商いも基礎が固まり、これから大いに乗り出そうという時に、「一心定まる」と
いう意味で、代々の襲名となる定右衛門に改名したものと思われます。同時に、
店員への訓戒書である「家内之定」を制定しました。
 全八カ条からなる内容は、公儀の法度を守ることという定例の形式で始まっています。
次いで、銘々の部署で昼夜油断なく主従ともに励み、立身を心掛けること。た
とえ上役になっても初心を忘れず、奢りを慎むこと。縁故者に内々で便宜を図
ることを厳禁する。血気にまかせて派手な商いをしないこと。常に傍輩の和合
を重んじ、心掛けること。旅宿においても、少々のサービスの手落ちは堪忍し
て神妙に旅すること、また高声の雑談は慎むこと。飲酒はどれほどまでという
制限はないが、平常心を失わないように適量をたしなむこと。
 末文では、これらの教えを守って和合して家業に励めば、立身出世は疑いな
く、老後も安泰であり、忠孝の道や国恩に報じることにもなるので、このよう
に家内の掟を定めるのであると記しています。
 晩年の定右衛門は、致富の道を訊かれて次のように答えています。致富に到る
奇策というものはない。ただひたすら勤倹に努めることである。だが、商業上
において片時も忘れてならないことがある。それは、第一に得意先の利益を図
ることである。そうすれば、おのずから自家の繁昌は間違いないと語ったとい
われます。この信条を定右衛門は、次のような道歌に詠んでいます。

  おとくいのもうけをはかる心こそ
        我身の富をいたす道なれ

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