2012年4月10日火曜日

陽徳から陰徳へ、塚本定次・正之兄弟の治山治水事業

 晩年の勝海舟の語録を集めた『氷川(ひかわ)清話(せいわ)』は、日本史上の著名人についての遠慮のない人物論を含んでいす。そのなかでは、近江商人と芭蕉の関係についても言及とくに、海舟と交流のあった近江商人の塚本定右衛門定次と弟の正之のことが次のように紹介されてい
海舟は、山林熱心家の定次とその弟正之は滋賀県下の山林のためにといって県庁に2万円ほどの資金を預けているという話をした後、海舟に語ったという定次の次のような言葉をそのまま記しているのです。

この二万円がなくなる時分には、山林も大分繁殖して参りましょう。だが、私はとてもそれを見ることは出来ますまい。しかしながら、天下の公益でさえあったら、たとえ自分が一生のうちに見ることが出来ないといっても、その辺は少しも構いません。私は今から五十年先の仕事をしておく積りです

 この言葉を聞いた海舟は、「なかなか大きな考えではないか。斯様(かよう)な人が、今日の世の
中に幾人あろうか。日本人もいま少し公共心というものを養成しなければ、東洋の英国な
どと気取っていた所で、その実はなかなか見ることは出来まいよ。」と、賛嘆していま
す。同時代人に対しては、辛らつな批評の多い海舟であるだけに、珍しい記述として注意
を引くのです。
 海舟に褒められた定次・正之兄弟の滋賀県内の治山治水事業への寄付行為は、史料とし
て残っていて、きちんと跡付けることができるものです。例えば、明27年(1894)から
40年にかけておこなわれた琵琶湖へ流入する河川に築
かれた堰堤(えんてい)や植林事業は、滋賀県庁と連帯しておこなわれ、湖東・湖西・湖南・湖北の全
県下におよんでいます。 その総面積2605326歩の工事費は、57056円に上りま
した。県費と塚本家の出資割合は、21であり、塚本家は19000円余を負担したの
です。伊吹山麓の三谷尻川の土砂扞止(かんし)工事の恩恵を受けた東浅井郡七尾村
相撲庭(すまいにわ)(現、長浜市)には、村民による塚本兄弟の顕彰碑が静かに建っていて、海舟が語
った塚本兄弟の話は、事実にピタリと符合します。
 また、塚本家による治山治水事業には、山梨県東山梨郡三富村(現、山梨市)での植林
事業があります。植林のおこなわれた山を山梨県は「塚本山」と命名しました。それに
は、以下のような事情があったのです。
 山梨県下では、明治408月の豪雨によって笛吹川などの河川が氾濫し、2万戸が流出
し、浸水家屋も15000戸を超える被害をうけました。さらに同43年の8月にも再び豪雨に
よって、甲府市では市内の三分の一が浸水被害をうけたのです。この水害の後の県民の要
望に応えて、明治44年に皇室林30万町歩が洪水対策として山梨県に下賜されました。この
年、甲府店創業100年目に相当した塚本一統は、父祖の地の水害に心を痛め、塚本合名会
社の名前で山梨県へ、植樹費用として当時としては前例のない多額の1万円を寄付しまし
た。
 山梨県は、この寄付金を明治天皇から下賜された県有林の植樹費用にあてることにし、
その県有林の笛吹川上流一帯を「塚本山」と名付けたのです。大正2年(1913)からはじ
まった植林では、桧・杉・唐松が植えられ、同4年に完了しました。この間、塚本家当主の
三代目定右衛門定治は、現場に足を運び、笛吹川河岸の神社で工事の無事を祈ったという
ことです。
 その後、山梨県は「塚本山」の保育作業を続け、昭和27年(1952)の調査によると総蓄積32370立法メートルの立派な森林に成長しました。現在は、三面に節のない優良材が採れるまでになっていて、大型ヘリコプターを使って搬出されています。
 植林から100年以上を経た現地の森林には、塚本家の顕彰碑がひっそりと建っています。陽徳として、はじめはよく知られた美挙も、年月とともに誰も知らない陰徳に転じていくことの一例です。塚本兄弟は、海舟に語った言葉の真実を身をもって実現したといえるでしょう。
 定次は、明治3331日に(したた)めた「遺言書」のなかで、陰徳善事仕方についても、慎重ようふれてい

神社仏閣や学校教育などの慈善事業へ適当に出金するのは構わないが、その方法については当主、同族、相談役が慎重に協議して諮ること。慈善事業は、単に金を出せばよい、といものではなく、一族の繁栄と家業の永続のための祈祷と心得なければならないからである。事業に成功して富を得たとしても、支えてくれた人々への恵の心がなければ、長続きしないものである。長久に栄えるためには、陰徳善事によってその徳を施すにかぎるということは、天地の道理であり、古今の歴史に例は多い。このことをよく弁えておくこと。

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