2012年6月19日火曜日


後継者育成に尽くした女性―西谷善蔵の母


 全国を商圏とした近江商人は、行商先・出身地別の会員からなる商人団体を組織でしました。競争を避け、相互扶助を図り、権益を守るためです。

和歌山方面では若栄講、伊予松山には住吉講、北海道は両浜組(りょうはまぐみ)というように各地に商人団体を結成したのです。仙台・最上・福島地方に進出した近江八幡出身の商人たちの組織したものが恵美(えび)寿講(すこう)です。

 宝暦14年(明和元年、1764)の「恵美寿講帳」によれば、会員は、仙台の寺村与左衛門、福島の西谷善太郎、・西谷治左衛門・内池三十郎、山形の西川久左衛門・西谷善九郎・西谷権右衛門、(いわ)()国瀬上の内池与十郎、天童の内池宗十郎、福島の森亦三郎の10人でした。

 西谷善九郎家は、西谷善太郎家から寛文6年(1666)に分家して、福島と山形に「ヤマダイ」の家印をもつ西屋という屋号の出店をそれぞれ設けました。山形の繁華街である十日町にあった出店の店名は、西屋清兵衛と称するものです。

 西屋清兵衛の商売は、山形では上方の呉服を商いました。また、現地で仕入れた紅花・(ちょ)()(麻布の原料)・生糸などの商品を船で最上川を経て酒田に下し、さらに越中伏木(ふしき)・越前敦賀から八幡や京都へ送りました。諸国産物廻しの商法を採ったのです。

 兵庫県立歴史博物館の所蔵する「近江商人西谷家文書」には、西谷善九郎家の西谷善蔵が当主として初めて山形の出店に下向する際に、善蔵の母が与えた寛政元年(1789)作成の手紙が含まれています。表題は「店表(みせおもて)滞留の内、日夜心懸けの事」とあるので、若い当主として善蔵が出店に滞在している間に、日夜心掛けるべきことを教え諭した訓戒の書です。8カ条と後書きからなっています。



 第一条 朝起きに努めること。起ち居ふるまいは行儀好く、仮にも冗談がましいざれ言を言わず、身持ちを正しく守ること。大酒大食といった不養生をせず、とくに色欲をつつしむこと。当主としての自分のふるまいが、善悪ともに店の印象に反映することをわきまえること。

 第二条 朝から晩まで店に出て、家業見習いに努めること。同業の商人衆に対しては謙虚な態度で丁寧に応対し、その他の懇意先や出入りの衆にも同様の態度をとること。

 第三条 衣服や手回り品などの身に着けるものは、ぜいたく品を避けること。

普段の着衣は、夏冬ともに質素を旨とし、五節句などのハレの日に  青梅(じま)・越後帷子(かたびら)などの古いものを着るのは構わない。

 第四条 物見遊山は控えなければならないが、店商いの暇な時に、後見人や支配人の了解を得て、23回神社仏閣へ出かけたり、野山へ気晴らしに出かけたりするのは構わない。その際、かならず奉公人のお供を連れること。

 第五条 健康維持のため、店務多忙でも毎月2度は全店員が(きゅう)()を受けるようにすること。

第六条 家業に暇ができた時は、習字や算盤(そろばん)を稽古したり、聖人の書を取り 出したりして修養に努めること。

第七条 店員には慈悲の心で接すること。特に幼い店員に道に外れた行為が あれば密かに注意を加え、ささいなことであっても善行があればすぐに褒美をあたえること。また、年上の店員から若当主である自分に苦言を呈されたならば、早速聞きいれる素直さをもつこと。忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦しというように何事も堪忍を専一にして、言葉遣いを柔和に保つことである。たとえ心に叶わないことがあっても、腹を立てたり、顔色に表したり、言葉を荒立てたりしてはならない。

第八条 店の内外の運営については万事を後見・支配人に任せて、口出しを しないこと。もし不行届きなことがあれば、後見・支配人に内々に伝え、後はその取り計らいにまかせること

後書き 今度の初めての出店への下向は、商用見習いによる店務上達が第一 目的である。店の経営に不備があっても、その場で善悪を指図せず見聞に徹し、本宅へ戻った後で相談役に図ってから改めて指令を出すことである。



 教諭の内容は、細やかで具体的です。若当主として修養を積むことを求め、店員への接し方から、店の運営、幹部店員との距離の取り方にまで及んでいます。店務に精通した当主となることを何より求めているのであり、年若い息子へ後継者としての資格を備えさせようとする情理を尽くした訓戒の書といえます。

2012年6月5日火曜日


山中兵右衛門家の承継と奉公人



近江国蒲生郡日野町大窪の山中兵右衛門家を興したのは、貞享2年(1685)生まれの初代兵右衛門です。実家は日野椀の塗物師の家であり、初代は33女の末っ子でした。

家業を継いだ商才に乏しい兄は倒産し、先祖伝来の居宅も手放すことになりました。この実家倒産の悲運に遭ったことが、初代を行商による失地回復へと向かわせるバネになったのです。宝永元年(170420歳の時、姉の婚家へ家運挽回の胸中を打ち明け、その支援を得ることに成功した初代は、婚家から日野椀2駄を借り受け、東国へ旅立つことによって商いの世界へ飛び込んだのです。

初代は駿河国沼津の旅籠屋伊勢屋善兵衛方を根拠地にして商いに励みました。善兵衛は初代の人柄を認めて、小田原藩領であった御厨郷(現・御殿場)での営業を勧めました。当時の御厨郷は、箱根関所の北方にあたり、沼津・三嶋から甲斐の郡内へ通じる岐路に位置する宿場町でした。

以来14年間にわたって、往路では日野椀を売り、復路では御厨郷の産物を仕入れて売る持下り商いに従事しました。仕入れ金を借りて商売を始めた初代は、経費を可能な限り節約する必要があったのです。ある時は茶店の代わりに辻の堂を利用し、喉の渇きを谷水で癒したと伝えられています。また旅費に窮した場合は、昼食の代わりに路傍の畑の大根を所望して空腹を満たしたことさえあったと伝えられています。

努力は実って、享保3年(1718)に御厨郷御殿場村に日野屋と称する初めての店舗を開くことができました。取扱い商品は、食料品から小間物や日用品であり、万屋的商法によって、わずかな利益を積み重ねていきました。初代は寛保年間(174143)に人手に渡った居宅を買い戻し、延享2年(1745)に家督を長男の二代目兵右衛門に譲って隠居しました。没年は安永3年(1774)、享年90

二代目兵右衛門は、享保10年(1725)に生まれました。御殿場店は隆盛となり、近隣の村々と卸・小売りの方法を巡って争いを惹き起こすほどに成長し、明和7年(1770)には沼津店を新設しました。安永6年(17770)に三代目に家督を譲って隠居し、文化2年(1805)に81歳で没した二代目は、著名な家訓を制定しています。78歳となった享和2年(1802)に作られた、10カ条からなる「慎」です。

この家訓の特徴は、半分の5カ条が商いの手法について説かれていることでしょう。不実の商いを慎むことを求めた5カ条の内容は以下の通りです。



・店の仕入品は、よく吟味し、確実な品質の品を売買すること。不正な品や粗末な商品を取り扱ってはならない。また一挙に高利を望んではならない。

・得意先に対しては、誠心誠意をもって確実な商品を届けること

・子供などは小さな得意先だからこそ、却ってこれを大事に扱うこと

・外見の見てくればかりを飾るような派手な商いは不要であり、堅実な商いを心掛けること

・市価の変動を見越して実物の受け渡しをしないで決済したり、思惑取引したりなどは、全く無用な仕法である



二代目の長男の三代目は、宝暦8年(1758)に出生しました。家督相続後は積極経営を進め、御殿場の近傍に2店の酒造店を開いています。また、御殿場出店100周年を記念して、小田原藩へ50両上納して2人扶持を与えられました。50歳で中風を発病したが、後継者の息子が幼かったため、当主の地位に座り続けざるを得ませんでした。没年は文政8年(1825)、享年68

 これまで順調であった山中家の承継に問題が生じるのは四代目からです。四代目は文化2年(1805)に生まれ、3人の兄が夭折したため、21歳で家督を相続しました。商家の当主としての十分な訓練と経験を積むことなく、14000両余の純資産を相続することになった四代目は家業に身を入れなかったのです。そのため、相続後間もない文政12年に、店支配人を始めとする奉公人一同から厳しい弾劾を含む「恐れながら申し上げ奉り候」という要望書を受け取る羽目になりました。

 爪印を押した要望書の中身は、当主が家業に一向に精励しないので案じていたところ、さらに家の利害にかかわるような不埒の身持ちが明らかとなった、この上は、周囲の忠告を聴き入れて改心してもらうならば店一同安心するが、聞き入れられなければ奉公を続けられないので、奉公人全員退店の覚悟である、よって要望を受け入れてもらいたいというものでした。

 四代目は全面的に要望を受け入れ、誓約書を作成しました。しかし四代目は、当主の自覚に乏しい所業を繰り返したのです。以後、山中家は幼弱な当主が続き、家督相続は三代にわたって齟齬をきたしました。山中家が明治中期に立ち直るまで家業を維持できたのは、出店収益の25%を奉公人に配分する主法制度の導入などによる、主家と奉公人の間柄が所有と経営の分離関係にあったからであるといえるでしょう。