2013年10月24日木曜日

三方よしと現代経営

1 三方よし経営とは

近江商人という呼び方は、近江国以外の人々が、「あれは近江国からやって来た、外来の商人なのだ」という意味で使った言葉である。近江国内でのみ商売する人は、近江商人とは呼ばれない。現在の滋賀県域である近江国出身者であって、他国商いに従事した人々こそ近江商人と呼ばれる有資格者である。

近江商人の前史は、鎌倉時代にさかのぼる。その当時から近江では隊商を組んでの隣国行商が活発であった。江戸時代に入って、天下が統一されて治安が良くなり、街道や宿場の制度が整ってくると、単独、あるいは少人数での旅ができるようになり、近江商人の足跡は北海道の松前・江差から九州の長崎・鹿児島に見られるようになった。なかでも出店の数が多かったのは、関東である。これらの出店では、呉服太物、小間物から荒物にいたる日用品を扱い、同時に酒造業などの醸造業に従事した。近江国日野の出身で、駿河国御殿場を中心に醸造業や日用品の卸小売りなどの出店を、享保3年(1718)以来数ヵ所にわたって設けた山中兵右衛門などもその一人である。


近江商人による出店設置は、明治・大正期に入ってもなお活発であった。その範囲は朝鮮や中国はもとより、南北アメリカにまで広がった。これらの出店の後身が、現在の近江商人系企業である。


現代の日本は、世界一の老舗企業大国といわれ、社歴が100年を超える企業は、5万社以上あり、200年を数える企業は世界の45%にも及んでいる。この老舗企業の一角を占めているのが、近江商人系企業であり、800年を超える歴史を持った近江商人は、まさに日本型経営の源流の位置にある。


2 商いの手法

近江商人の商いの手法は、天秤棒をかついだ行商時代は持下り商いと呼ばれ、出店を持つようになると諸国産物廻しといわれる。すなわち、上方から呉服太物・小間物・売薬などの完成品を地方へ持下り、地方の生糸・紅花・青苧などを上方へ持ち登る手法である。完成品とその原材料を扱う、一種のノコギリ商いであり、現代商社のような効率の高い商法であった。そうした手法は、豊かな富の源泉となり、同時に文化の伝播と地方物産の開発に貢献することになった。

近江商人の行商は、見込みを付けた地方へ毎年出かけて商いに従事することによって、顔なじみを増やし、地縁も血縁もない所で地盤を築いていくものである。その上で、「三里四方釜の飯を喰うところ」、という出店立地に関することわざが残っているように、有効需要のある有望な土地を選んで開店した。


行商に始まり、やがて出店を開くようになる近江商人の他国商いは、出先の人々に受け入れられなければ、商人としての立身も、出店の定着も不可能であった。「近江泥坊」と揶揄されるような、巧みな商法で儲けた分を、洗いざらい生国近江へ持ち返るだけでは、せっかく築いた商圏を維持できないのはいうまでもない。出向先の地域や人々から評価され、信頼を得るための商いの姿勢を端的に示すものが、「売り手よし、買い手よし、世間よし」からなる三方よしの理念である。したがって、三方よしは、近江商人の商いの手法そのものに由来する理念である。
 

三方よしの理念は、宝暦4年(1754)に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸が、孫娘の婿に迎えた15歳の養嗣子宗次郎に書き残した「宗次郎幼主書置」のなかの一節が原典である。その表現が変遷して、現代の三方よしという短いキャッチフレーズとなった。三方よしの順番では、なぜ売り手よしが一番手に置かれているのだろうか。早計に、「やはり、自分の都合が最優先なのか!」と、短絡的にとらえるべきではない。売り手よしは、売り手の側に立って働く人たちの環境が良いという意味にとらえるべきである。働きやすい職場環境が整えられていることが第一の条件ということである。誰しもパンのみのために働くのではない以上、働く意義を見出せる職場を希求している。

接客の現場に立つ販売員であれば、良い職場環境の下で、接客への熱意や顧客満足のための自発的な工夫を生み出すことができ、売る側とお客の双方にとって心地好い売買が成立し、その好い記憶が二番手の買い手よしとなって、一見のお客を再来の顧客に転化させるのである。こうして、売り手よし、買い手よしを実現でき、仕事の喜びを感じられるようになると、三番手の世間よしという、仕事の社会的意義に目覚めるようになるであろう。
三方よしが、うまく循環するようになれば、働き手は働き甲斐を得て、ますます情熱をもって仕事に励むことができる。売り手よしは、このようなプラスの循環の最初に位置するからこそ、三方よしの一番手に挙げられているのである。 
 

実際の経営の現場においても、売り手よしという従業員の働く環境に気を配っている企業の業績は好調である。残業もなく、定時退社の従業員は退社後の時間を自由に使うことができ、リフレッシュの自由時間を明日のエネルギーのために蓄えることが可能となり、労働の生産性を高める方向に作用する。ひいてはそのことが、業績の好調をもたらすという好き循環を生み出している例は多いのである。いうまでもなく、このような企業では、経営者と従業員との信頼関係は日々に再生産され、優れた人材が集まってくるという相乗効果が生まれることは自然の流れである。
 

代表的な事例として、「会社は社員を幸福にするためにある!」との信念を貫いて、平成20年には創業以来48年間増収増益を達成した伊那食品工業㈱を挙げることができる。経営トップの塚越寛氏は、著書の『年輪経営』(光文社、2009年)のなかで、珠玉の信念を披歴している。
 

すなわち塚越氏は、企業は年輪のように少しずつ大きくなっていけばよいのであり、そうした低成長の年輪経営が、企業の永続を可能にすると考えるのである。社員を大事に扱う経営が、年輪のように確実な成長を達成したのである。
 

一度に高利を求めず、薄利を着実に積み重ねていくという塚越氏の考え方は近江商人の三方よしの理念と通底している。現に、近江商人は営利について述べた家訓や遺言の中で、薄利について繰り返し言及している。

3 三方よし経営の系譜

450年の社歴を持つ最大手の総合寝具メーカー西川産業㈱の祖は、西川甚五郎家である。蒲生郡近江八幡の西川甚五郎家本宅には、江戸出店から年に二回、決算帳簿が送られた。毎回の帳簿の末尾には、必ず同じような趣旨の家訓が記されている。

文化4年(1807)12月の家訓は、次のようなことを述べている。縁あって一つ屋根の下で暮らすのだから、お互いに親しみ合いながら家業に精励すること。商品は品質をよく吟味して、「薄き口銭にて売りさばき」と、薄利で売ることを奨励している。さらに、たとえ品薄の時であっても「余分の口銭申し受けまじく候」と、割増金を取ってはならず、売り惜しみや買い置きなどの世間に害を与えるような行為を禁じている。
 

利益に対する禁欲的な姿勢は、社歴310年の総合繊維商社外与㈱に伝わる家訓のなかにもみられる。外与㈱の前身である近江国神崎郡五個荘の外村与左衛門家(外与)には、安政3年(1856)制定の「心得書」がある。この当時の外与は、近江商人の番付のトップに位置付けられ、江戸時代の最盛期を迎えていた。
 

「心得書」は、自家の問屋業における基本姿勢を共存共栄と規定している。すなわち、取引においては作為をせず、自然の成り行きを尊重する。物事の判断基準を長期的平均の見方におき、商いの利益を取るか、人の道を選ぶかの瀬戸際では、「永世の義を貫く」という人の道優先を宣言している。
 

このような立場は販売姿勢でも一貫している。取引相手の小売商の気配に応じて、時の相場の成り行きに任せて、損得に迷わずに売り渡すこと。売り手側の問屋が、安売りしたことを後悔するような取引であれば、小売商側に利益の出ることは間違いないのであり、それは双方にとって好都合なことと受け止めよ、と説く。「売りて悔やむこと、商業の極意、肝要にあい心得申すべく候」と、薄利で満足することこそ商いの極意であるというのである。
 

この条文の後には、目先の利に目がくんだ、売り惜しみや思惑取引は、天理に反し、家法に背く不実の取引であり、そのような思惑取引によって多少の利益が得られたとしても、取引の永続は望むべくもなく、厳に慎むべきであるという条項が続いている。

薄利の系譜は、明治になっても受け継がれた。平成23年に創業200年を迎えた、東証一部上場のツカモトコーポレーションの創業者である初代塚本定右衛門は、晩年に致富への道を問われて、次のように答えた。
 

「資産を築く特別な方法があるわけではない。ただ勤倹と正直あるのみである。ただその際に、片時も忘れてならないことがある。それは、得意先の儲けを手助けするつもりで、相手の立場を尊重すれば、それはやがて我が身に余沢となって返ってくるであろう」と語り、「お得意の儲けをはかる心こそ、我が身の富を致す道なれ」との道歌を詠んだ。二代目定右衛門も、父の後を承けて、「薄利広商」を座右の銘とした。
 

西川甚五郎家・外村与左衛門家・塚本定右衛門家のいずれの商いの理念にも共通するのは、正路の商いによる家業永続の姿勢である。正路の商いとは、まっとうに勤勉に働いた結果としての利益こそが、誰にもはばかることのない真の利益であるとの信念のもとに商いに従事することである。相場を張ったり、買い置きをしたりして、他人の難儀をかえりみないで得た利益は、家運長久をもたらさないことを弁えていた。
 

家訓のなかでも、欲心を刺激しやすい営利活動では、欲望を制御せず野放しにすれば、奢りとなり、いつか道に外れて、大きな禍を招くことになると諭している。富家の衰退は、奢りに発すると見なし、子孫の奢りを防ぐことが、成功した近江商人の家訓に込めたメッセージであった。


4 三方よし経営の現代的意義

近江商人の「三方よし」の理念の最大の特徴は、単に「売り手よし、買い手よし」という取引の当事者だけでなく、周囲の世間にも配慮した取引を重視した「世間よし」を取り入れていることにある。江戸時代からすでに、近江商人と呼ばれる人々は、「実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」という石田梅岩の思想の実践者として、共存共栄を自覚し、利を独占する商いの一人勝ちを認めなかった。彼らが、世の中あっての商いであり、商売は世の中全体を得意先として行うものであるという、商いの社会性に気づいていたのは、その商いが他国稼ぎであったことに由来する。
 

この「世間よし」は、現代のような経済のグローバルな展開や深刻な地球環境問題の下では、一層重要な理念となっていくであろう。ビジネスの社会性を自覚しないような企業に明日はないのであり、その意味で世間よしを取り入れた近江商人の三方よし経営は、決して過去のものではなく、これからの企業経営に示唆するところが大いにあるといえよう。

2013年9月2日月曜日

地球環境問題と現代における「三方よし」経営

地球環境に対して影響のある人間活動のなかで、企業活動は最大のものであるといっても過言ではないでしょう。環境問題が「待ったなし」のところまできているのは、ほぼ共通の認識になりつつあります。そうした危機意識を土台に、これからの企業のあり方を、根本的に考え直そうというのがCSR経営(社会的責任経営)ということが叫ばれ始めた背景にあります。これからの企業の存在価値は、単に経済的価値を実現するだけでは充分でなく、人々の生活の助けになるような環境問題に対応できるような存在でなければ明日はないという考え方です。

こうしたCSR経営論は、さも今始まったかのような言われ方をしていますが、とんでもないことです。日本には、江戸時代から近江商人によって「三方よし」、つまり「売り手よし。買い手よし、世間よし」の取引精神こそ商売繁昌のもとであり、家業永続の基本であると伝えられてきた理念があります。この理念の最大の特徴は、単に「売り手よし、買い手よし」という取引の当事者だけでなく、周囲の世間にも配慮した取引を重視した「世間よし」ということを取り入れていることであります。

この「世間よし」は、現代では環境問題への対応を意味していると受け止められるのであり、企業は社会的責任を果たさねばならないということを言っているのと同じであります。その意味では、近江商人の「三方よし」経営は、現代CSR経営の日本的源流といえるのであります。

企業活動のもとになる資源はすべて、地球から取り出してきたものであります。原料の木火水土金はすべて自然の恵みであり、人間はそれを加工しているに過ぎないのです。何かを生産するには、熱帯雨林の伐採であったり大地の掘削であったりという行為が必ずついてまわります。それなのに大量生産大量消費の社会を築いてしまった。そのツケが現在の地球環境問題となって跳ね返ってきたのです。

なぜ大量生産大量消費が可能であったかといえば、生態系破壊、自然破壊に対するコストを負担してこなかったからであるともいえます。大量生産大量消費では必ず物を無駄に使い捨てます。そうしなければ回転しないからです。また、無駄にできるのは、一つの商品が何を原料に作られ、どういう流通によって商品になっているかというプロセスを把握していないからです。物を使用する時、生産と流通の過程をかえりみることもなく、ただその商品の値段に関心がいっているだけです。

若者の大半は、石炭を見たことも触ったこともありません。ボタンを押せば風呂は沸くと思っているのです。風呂を焚くということ自体が分らなくなっているのです。地球環境問題は、1企業の1家庭の、1国だけの問題ではありません。全地球規模の問題であります。だからこそ、物が手に入るプロセスを教える教育が大事なのです。そうした危機意識をもった経営者の変化があって、従業員が代わり、顧客満足を自主的に実践する従業員に成長していくのです。「三方よし」が、最初に「売り手よし」経営者と従業員のことを挙げているのは理由のあることだと思います。(未完)

2013年6月13日木曜日

定年退職記念メッセージ:教壇と礼節


経済学部の父母会から、定年退職記念のメッセージを求められた。このような場合、通常は父母会との関わりや思い出を綴るのであろうが、3人の子供を育てた体験があるので、教師の立場からだけでなく父母の側からも、学校や教壇への感想を述べてみたい。

大学に籍を置く以上、研究者であると同時に教員でもある。どちらにウエイトをかけるかは人様々であろう。いずれにしても教壇には立たねばならない。

講義には、大きな負担と緊張がともなったことは間違いない。近江商人史を含む日本経済史の講義を担当し、一話完結型の講義の積み重ねによって、暗記モノではない、大きな流れを理解できるような歴史を心がけてきた。講義開始のベルが鳴っているのに、ノートの準備が間に合わずに、焦りに焦って夢から覚めることもあった。

近頃は、講義を授業とも呼ぶようになったが、私自身は講義と解釈してきた。自分をふつつか者と心得ながら、教壇に立って講義という義(人の道)を講じる以上、せめて外形なりとも毎回ネクタイを着用することを自分に課した。講義の初回に、軽い吃音と板書の字が汚いことを自分の欠点として明かすと同時に、講義への想いを語り、受講生にもそれなりの受講態度を要求した。

子弟を学校に預ける父母の立場からすれば、礼節をわきまえた、できるだけ人品の優れた先生に託したいと願うのは当然である。東京の都心から少し離れ、滑走路跡という長い桜並木のキャンパスを持つ大学の入学式に、父母として出席したことがある。その時の学長の挨拶は、自校が優れているのは単に自然環境だけではないといったことを、若干のユーモアを交えながら自讃する品の好い祝辞であった。

反対に、公立中学校の授業参観で出くわした光景は、大きなショックをともなった。授業に現れた担任の先生の服装は、家庭着のようなジャージーの上下であり、足はツッカケのまま、教科書は手に丸められていた。この中学校では、毎朝校門で生徒への厳しい服装チェックを行っていたというから、呆れるというも愚かな暗澹たる教育の現場であった。

昨今のスポーツを巡る体罰問題を論じるまでもなく、学びの場において決定的に重要なのは、教師や指導者の姿勢である。万巻の書を読んでも、聖人の書に込められた学問の真意を知らなければ、本当の学問ではないと指摘したのは江戸時代の石田梅岩である。ただ文字ばかりを知り、字面の解釈に通じているだけの学者を“文字芸者”と痛罵した梅岩の指摘は、今なお真実である。
(同志社大学経済学部『父母会会報』102号)

2013年5月31日金曜日

Activities of Ohmi Merchants in the Meiji Era : 1868~1911

It is commonly believed in Japan that although the Ohmi merchants had expanded their markets to a nationwide scale in the Edo Era (1603-1867) that they suffered business declines in modern times (Meiji Era:1868-1911). However this is incorrect because the Ohmi Merchants continued their business vigorously.

Early in the Meiji era, Ohmi merchants were in a defensive struggle to protect their individual properties from revolution during the Meiji Restoration of 1868. Following the deflationary policy(1881-1885) of Minister of Finance Masayoshi Matsukata, Ohmi merchants returned to the offensive in business activity.

The master of Chogin, a famous Ohmi merhant household, made a voyage to England to purchase weaving machines in 1887. At the same period other masters of long-established stores took voyages to Europe and America for business purposes.

The foundation and initial growth of Japanese capitalistic management made it possible for merchants to invest in various fields of industry.

For example, Chogin invested in weaving (Onagigawa weaving company), mining (Hatta mine), railways (Ohmi railway company), banking (Bank of Tokyo), and the export business (Seoul Branch of Chogin). Chogin placed a family member in the board of director of each business he invested in.

In addition, Ohmi merchants generally had been gradually reorganizing their stores from private enterprises to incorporated enterprises to survive in modern times.

2013年5月14日火曜日

近江商人研究40年を振り返って―旅のススメ



旅のススメ

アーモスト大学へ


20123月から4月にかけて、約3週間のアメリカ東部への旅に出かけた。第一の任務は、同志社大学とマサチューセッツ州にあるアーモスト大学との学術交流交換教員として「近江商人の三方よし」を講じることであった。

この旅は、任務もさることながら旅自体が初めての土地であったため、とても刺激的であった。3週間を異郷の地で、しかも独りで過ごす体力的な自信がなかったので、万一に備えて介添えのために妻を同伴した。

アーモストは、ボストンから130キロほど内陸にある小さな大学町である。関空からニューヨークのケネディ空港まで直行便で飛んでも、アーモストにたどり着くには、別の空港に移動してローカル便に乗り、さらにバスか乗合タクシーを利用するしかない。そこで、ニューヨークとアーモスト間は往復ともに予約タクシーを使うことにした。かなり大胆な計画である。

広大なケネディ空港で、いかにして予約のタクシーと出会うかが問題であった。幸いにも、「末永教授」、と英語で大きく書いたプラカードを掲げた運転手のお蔭で、すぐに見つけることができた。アーモストの宿舎、ロード・ジェフリー・インまで荷物紛失の危険や積み替えの手間もなく、コネティカット州を経由する3時間半の旅は快適であった。帰路は大学の事務局の斡旋で、ニューヨークのホテルまで直行のタクシーを手配できた。往路のタクシー料金は、チップ込みで500ドルであったが、帰路は同じ旅程なのに299ドルで済んだ。

講演後は、同志社がアーモスト大学へ寄贈した日本庭園「有志園YUSIEN」を見学したり、大学図書館で校祖新島襄の英文真筆にもふれたりした。アーモストの街の人々も、同志社とアーモスト大学との関係を承知していたことは驚きであった。この絆は同志社の強みであり、それを一層強める必要性を痛感した。

 

ニューヨークにて


一週間滞在したニューヨークは、セントラルパークの木々が新芽や若葉の季節を迎えたばかりであり、陽光と活力に満ちていた。ホテルはマンハッタンのダウンタウンにとったので、名所はほとんど徒歩圏内にあった。タイムズスクエア―は深夜近くになっても老若男女、様ざまな人種で沸き立っていたし、ブロードウェーのミュージカルは迫力満点であった。

近江商人の末裔としての日系カナダ移民も研究対象にしている私にとって、特に興味深かったのは、自由の女神の建つリバティーアイランドの隣のエリス島を訪れたことである。エリス島は、移民の島である。ヨーロッパからの移民検問所のあったところであり、今は島全体が博物館になっている。

彼らが故郷を離れるときに持参した大切な物品・旅行鞄、不安と緊張に満ちた上陸直後の写真や検問の様子が展示され、家系作りがブームとなっているという大勢のアメリカ人たちが見入っていた。検問の仕方には、時代相を表して生々しい待遇格差があった。一等と二等の船客の移民に対しては、係官が船まで出向いて便宜を図った。最多数を占める三等船客は、下船して大部屋に収容され、名前を呼ばれるまで辛抱強く待機しなければならなかった。

 

研究生活の実感


旅、特に海外への旅にはいつも効用と刺激がある。内面の気分転換と外面の発見である。旅に出ることによって日常の営為を一時的に断ち切ることは、新鮮な発想への刺激があり、異国の文物に出遭うことは、自国のそれとの対比を考えさせずにはおかない。

40年におよぶ近江商人の研究で、蔵のなかの塵埃にまみれた古文書と取り組んでいた若い時は、それが日系カナダ移民への関心を引き出し、やがて毎夏のヴァンクーヴァ―滞在を恒例とするようになるとは思いもよらなかった。事物や事象は単独で存在しているのではなく、まさに「一坪の土地の歴史」を調べることは広い世界に通じていることを実感する研究生活となった。

現代がいかにデジタル時代とはいえ、テレビやインターネットを通じて見聞するだけでなく、現地と現場の匂いを嗅ぎ、舌で味わい、アナログ的に五感のすべてを活かして初めて得られるもののあることを痛感した。

旅のススメ、これこそ春秋に富む人々への2013年春に退職する私からのはなむけの言葉である。                           

                        (『同経会報』75号、20134月)

2013年4月15日月曜日

新聞に掲載されました。「三方よし」企業生き残りのヒント

 

去る201349日の朝日新聞夕刊の文化欄に、主宰したシンポジュームの紹介記事が掲載されました。

 




2013年4月5日金曜日

Ohmi Merchants-Ohmishonin- and CSR

In Japan,merchants were identified by their places of origin.
   The different place names implied differences in specialization, method, and other characteristics of business. Ohmi merchants, from Shiga prefecture, were well known as peddlers.
  Ohmi merchants first appeared in 13century. From this time they began to trade several goods, forming trade caravan, traveling in Ohmi and the surrounding area.
   In early modern times, the typical Ohmi merchants started out with a stick(tembinbo) balanced on one shoulder supporting a few bundles of goods and traveled all over the country. They handled a wide range of goods, including fabrics, cotton, or linen cloth, mosquito nets, lacquer ware, haberdashery, drugs, and cosmetics.
   The branch stories of Ohmi merchants were located all over Japan, contributing to the increase in the economic and social well-being of many communities.
   The later generations of Ohmi merchants became very successful in business. These successful businesses attracted other young men who dreamed to become wealthy merchants. As such, the Ohmi province produced a lot of merchants over the span of several generations.
   Ohmi merchants were respected for their keen business sense, their unfailing eye for profitable opportunities, and their almost superhuman perseverance. They also devised and practiced methods of management and control that were highly rational even by modern standards.
  One of Ohmi merchant’s mottos was “Sampo Yoshi” which means “business must promote the benefit of the seller, the buyer, and society as a whole”.They were, so to speak, real pioneers in the Japanese managements style and  “Sampo Yoshi” is a one of  the worldwide origin of CSR.