2015年1月16日金曜日


      “商いに気張る”ということ

 

川島又兵衛の逸話
 滋賀県では、年配者による日常のあいさつ言葉は、「おきばりやす」である。道端で出会って、ちょっとした会話をして立ち去るときに交わされる。元気で働けること、健康体であることへの祝意を込めた相手を思いやる言葉である。

  このような言葉を日常的に使う地方を郷里とした近江商人が、ことさら勤勉で、すさまじいほどの頑張り屋であったことは言うまでもない。商いに気張るということが、どんなことだったのか、逸話の一つを挙げてみよう。

  川島又兵衛は、神崎郡川並(かわなみ)村の出身で、天保年間の人である。東北や関東地方に行商した。屋号を大二(おおに)と称し、若い頃から忍耐強く、商利を見て進むことが早く強かったので、屋号をもじって鬼又(おにまた)と呼ばれたほどの者であり、後にはひとかどの豪商となった。

 


逆の意味での嘆息
 中山道の碓氷(うすい)峠を連れの商人と二人で、それぞれ10貫目(37.5キロ)ほどの荷を担いで越えたときの話である。碓氷峠は、信州(長野県)軽井沢と上州(群馬県)松井田の境にある標高960メートルの峠であり、日本海側と太平洋側の分水嶺である。  

時は夏の盛りの土用の頃であった。信州側へ向けて宿を出立して山道を登り始めたのは、涼風が吹き、見事な景色をめでる余裕のある早朝であったが、ようよう山腹にたどりついて一服した時分には、日も昇り酷暑となっていた。

 連れの商人は、荷を降ろすやいなや、喘ぎながら嘆息して思わず泣き言をもらした。

「浮世の渡世には様々あるとは言いながら、真夏にもかかわらずこんな険し い山道を重荷担いで峠越えする苦労を考えると、いっそのこと(すき)(くわ)をもって田畑を耕す農事に戻ったほうがましだ」

と、自分の選んだ境涯をぐちった。

 この言を聞くやいなや又兵衛は、

「私もお前さんと同じように嘆息している。けれどもそれは逆の意味である。例えば、このような難所のある山が五つも六つもあれば、大きな商利が得られるであろう。なぜなら、この位の山がわずか一つあってさえ商人をやめて百姓になりたいと願う人が出るのだから、険しい山がもっとたくさんあれば、信州へ入って商売しようとする競争相手はいないであろうにと、山の少ないのを残念に思うからである。」

 又兵衛のこの発言を聞いた連れの商人は、無益なぐちをこぼしたことを反省し、この一言で心の迷いが吹っ切れたと感謝したのである。以後彼は、商いに専心するようになり、商人として大成したという。


世の中あっての商い
 
 
 又兵衛の想いは、商利を前に飽くことなく前進する、勤勉でたくましい精神を表している。しかし、単に勤勉であるというだけでは、致富への道は遠かった。取引先をおもんぱかる、相手の立場に立つことのできる度量が必要であったことは無論のことであり、世の中あっての商売という社会認識は欠かせないものであった。

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