2016年11月1日火曜日

初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓と京都嫌い


初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓(ひいき)と京都嫌い

 

 初代伊藤忠兵衛(18421903)にとって、明治5年(1872)の大阪開店は、個人的には一代の大勝負であったが、全体的な時代の流れで見ると、大阪を目指した多くの近江商人団の一員としての進出、という側面を持っていた。しかも、気取らず、本音で語り、迅速を尊ぶ大阪の土地柄は、生誕した村の江州(ごうしゅう)(べん)をもって終始するような真率で気の早い自然人であった忠兵衛にとって、気質的にも馴染(なじ)みやすい所であった。

近世の大阪は、摂津の平野・堺・八尾(やお)・城州八幡(やわた)・伏見・近江等の周辺地域から集まってきた人々によって作られた城下町なので、(うじ)素性(すじょう)は重視されない傾向にあった。さらに、城下町というにもかかわらず、上町(うえまち)台地の北部に位置する大坂城周辺は街の中心地ではなく、都心は町人居住地の船場(せんば)あったしたがって、町の雰囲気には17世紀後半の大坂で活躍した俳人小西来山(こにしらいざん)が、「お奉行(ぶぎょう)の名さへ覚へずとし暮れぬ」、と詠んだような伸びやかさがあった。

反対に忠兵衛は、大の京都嫌いであった。御所を中心に発展した伝統の街であるだけに氏系図や老舗(しにせ)が重視され、本音と建前を巧みに使い分け、外来者への警戒心の強い京都に強く反撥した。

それはを店印とする伊藤京店が、四条(しじょう)室町(むろまち)下ルに移転新築した際のエピソードからもうかがえる。移転新築を決行する前に、室町(たこ)薬師(やくし)下ルの旧店舗地で新築しようとしたが、大工の不注意から小火を起こしてしまい、隣家の主人から苦情が出た。その口上は

「大体さんはお店の人が若過ぎる、あんな人に任せてゐると自然火事も起るし、吾々は心配でたまらぬ」

というものであった。当主の忠兵衛自身による陳謝にもかかわらず、失火の原因を店員の若さに帰してとがめられたことに立腹した忠兵衛は、その場で店舗の移転新築を決断したのである。忠兵衛は、京都の他に比類のない工芸の技術力を認めて京店を設置したものの、京都とは肌が合わなかった。

新参者の忠兵衛を容れる包容力は、京都よりも大阪の方がはるかに大きかったのである。息子の二代目忠兵衛は、父初代忠兵衛の大阪贔屓を次のように述べている。

 

 父が如何に大阪を高く評価し、期待したか、仕事や交友は申すに及ばず、夏の火の見(やぐら)暮しから川涼み、夜店、植木市、さては十日(とおか)(えびす)の雑踏にまで揉まれに行く。第二の故郷と言ふよりも大阪が日本中の力を持ってをる様に惚れ込み、また働きよかった様である。

 

働き易い仕事場を提供した大阪への、忠兵衛の深い愛着と(なつ)かしみの伝わる思い出話である。店員の懐旧談にも、店総出の夏の涼み船の話が出てくるので、主従ともども大阪の風物詩を愉しんだのである。

 
末永國紀「近江商人初代伊藤忠兵衛の大阪時代」(大阪商業大学商業史博物館『紀要』第17号、平成28年、所収)

2016年5月5日木曜日

新しい市場の開拓


新しい市場の開拓

 

 近江商人の活動領域は、地縁血縁の期待できない他国であったから、彼らは一から市場を開拓していかなければならなかった。進取の気性や敢為の精神をもたねば、新しい産業や商圏を築くことなど出来なかったことはいうまでもない。しかも単に勇敢であっただけではなく、創意工夫を凝らし、状況に応じた的確な判断を下すことが必要であった。

 持下り商いを実施した創業期には、毎年同じ地域へ出かけて顔馴染になることに努めた。出先の庄屋・寺・神社・(はた)()などの土地の有力者を頼り、そのアドバイスを得ながら、得意場を定め、顧客を広めていった。

 市場開拓は販売法と関連が深い。享保19年(1734)、叔父の助力もあって19歳で合薬の持下り商いを始めた初代中井源左衛門は、衣料品の帷子(かたびら)を扱う同郷の先輩に導かれて上総国へ出かけた。合薬は配置販売であり、帷子は訪問販売であるので販売方法が同一であってはならないと考えながらも、初回のことなので源左衛門は先輩の言を容れて一緒に回村した。2回目以後、源左衛門は自由な単独販売に移り、関東から甲信地域に販路を広め、売子も使用するようになり、延享2年(1745)最初の出店を下野(しもつけ)国の越堀町に設けた。

後に源左衛門は、90歳という長命を保ち、その資産は10万両を超えた。商品によって販売法は違うはずという判断を下しながらも、意に反する先輩の言を一度は受容した態度は、19歳の若者の判断としては卓越した思慮の行届いた行動であったといえる。

 販売促進法として、遊郭や浄瑠璃本を活用した近江商人もいる。寛政・文化の頃に次のような俗謡があった。「江州柏原、伊吹山のふもと、かめや左京のきり艾」という都都逸(どどいつ)である。これは、伊吹山麓に位置する中山道の坂田郡柏原(かしわばら)宿の(もぐさ)商松浦七兵衛が、伊吹艾を宣伝するために、江戸において吉原の遊女に唄わせたものである。そのため、江州柏原といえば、伊吹艾が合言葉のようになり、参勤交代の武士から庶民の旅人までが買求めるようになった。

 伊吹艾がどれほど著名な道中土産であったかといえば、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)降嫁一行が柏原宿を通過した際、艾店の一つでは3棹の大長持(おおながもち)に一杯入っていた小売包に売り切れが出たといわれている。また、七兵衛の兄の松浦庄兵衛は、大坂で伊吹艾を宣伝するために浄瑠璃本を作成させている。松浦兄弟は、当時の大衆に訴える効果的な宣伝媒体を利用したのであり、その斬新な宣伝方法は現代のマスコミを使った商品広告の走りであったといえよう。

 近代に入ると、様々な西洋の文物が流れ込むようになった。近江商人のなかにも、新しい輸入品を商って成功するものも出てきた。あまり知られていないが、明治初期に嗜好品のビールの醸造販売にたずさわった近江商人がいる。

販売のためのビール醸造は、明治五年(1872)の大阪での製造が初めてとされている。しかし、同じ頃、野口正章(18491922)も山梨県甲府市でビールを醸造している。

野口家は、蒲生郡日野の桜川村の出身で、初代が関東地方への行商の途次、甲府を選んで宝永年間(17041710)に酒醤油の醸造販売店を開いたことが始まりである。屋号は十一(じゅういち)屋。十一屋の若主人の正章は、非常な舶来好みであり、明治23年の頃から試験的にビールの醸造機械を研究し、山梨県令の藤村紫朗の奨励もあって醸造機械を設備し、明治5年には横浜でビール醸造を手がけていたアメリカ人のW・コープランドを招聘(しょうへい)して醸造法を習得した。数年間に10万円余の私財を投じての苦心の末に、明治74月に完成品の生産に成功した。  

正章は、三ツ(うろこ)の商標をつけて外国人の多く住む京浜地方に売り出した。野口家の三ツ鱗のビールは、28年頃には、「山梨ビール」の名前で山梨県内14箇所の店でも販売されるようになり、34年まで存続した。江戸時代から醸造業を得意とした蒲生郡日野出身の近江商人のなかにあって、正章は新製品ビールの醸造販売の鼻祖の位置を占めている。

ちなみに、正章の妻は女流南画家の野口小蘋(しょうひん)18471917)である。大阪生まれの小蘋の旧姓は松村親子。明治10年に正章に嫁した。画を日根野對山(ひねのたいざん)博覧会共進会皇族絵画教授宮内庁依頼屏風作品族学校奉職37年には帝室技芸員になった。
また、黒田清輝・和田英作・平福百穂に師事して、洋画と日本画の両方を修めた野口謙蔵(19011944)は正章の甥であり、近江の風物をこよなく愛し、よく描いた。