2018年2月4日日曜日

近江商人のネットワーク構築と社会貢献

中井家の乗合商い

 
近江商人は、通常複数の出店を持ち、出店からさらにその枝店を広げる場合もあった。家によっては、10を超える出店・枝店を設けることも少なくなかった。乗合商い、または組合商いとよばれた合資形態の多店舗展開の仕組みと機能を中井源左衛門家と矢尾喜兵衛家について取り上げてみる。中井家は初代から四代目までに合計21の出店・枝店を開いた。そのうち乗商いという共同企業の形態をとった出店は、東北から九州にわたった12の店舗である。

 これらの乗合店のうち、後に中井家の宝庫となった仙台店を取り上げる。中井家では、生糸・古手(古着)・繰綿の諸国産物廻しを構想して、明和6年(1769)に、仙台、伏見、後野の3店の同時開店方針を打ち出した。そのための資金調達方法として他人資本の導入を図る必要が生じた。仙台店の資本金は5000両、出資者は5人、損益分配の持ち分比率を全体で20分とした。

出資者の内訳は、初代源左衛門(3375両、135厘持ち)・矢野新右衛門(500両、2分持ち)・井田助右衛門(500両、2分持ち)・杉井九右衛門(3122分、125毛持ち)・脇村宗兵衛(3122分、125毛持ち)である。共同出資者の矢野・井田・脇村・杉井は、中井家の縁者や取引先などであった。天明元年(1781)までの10年間の配当金総計は、6757両、年平均配当率は877%であった。その後、天明の飢饉や仙台藩札の不通のなどの災厄が重なって源左衛門以外の者は出資金を引き揚げたので、仙台店は中井家の単独経営になった。

矢尾家の乗合商い

 
矢尾喜兵衛家は、寛延2年(1749)に武蔵国秩父(現・埼玉県秩父市)で、酒造業と日用品の小売業・質屋業を始めた。16の出店を関東地方に展開し、そのうち9店は酒造商、3店は乗合店であった。矢尾家の酒造業を中心にした支店網は、酒株を持つ地元の有力者から酒株と一緒に酒蔵、酒道具、店舗を居抜きで借り受け、奉公人を支配人として送り込む方式で形成された。このやり方であれば、固定設備に費用のかかる酒造業でも、少額の資本で開業でき、乗合店ならもっと少なくて開店が可能となる。

このような乗合店方式による多店舗展開は、適切な経営管理を必要とした。多店舗の経営管理のために開発採用されたのが、事実上の複式簿記である。商家で最も大事な帳簿は、仕入れと販売と一切の金銭出納を記し大福帳である。まず大福帳から店卸帳をつくり、さらに近江の本宅への決算報告のために店卸目録が作られた。中井家も矢尾家も、店卸帳や店卸目録の損益は、貸借対照表と損益計算書に相当する二通りの計算によって算出され、複式簿記の原理で計算されている。他の近江商人の大店でも、同じ記帳方式であり、近江商人の簿記法は、鴻池や三井に優るとも劣らない最高水準に達していたから、当主は遠国の出店を支配人が持参する店卸目録を通して管理できる仕組みになっていた。

商人団体と定宿制

 
行商を営業活動の原点とした近江商人は、安全な旅商のための方策を考え出して、旅の組織化を図った。その一つが行商先別あるいは出身地別に結成された商人団体である。両浜組は北海道へ進出した商人団体であり、栄九講は九州を商圏にした団体である。この種の商人団体の目的は、競争を避け、権益や商権の確保、相互扶助にあった。

 代表的な商人団体に、売掛金回収機能と特約旅館制度を2本の柱とする日野大当番仲間(ひのだいとうばんなかま)がある。構成員は明和7年(1770439人、明治10年(1877)でも241人であり、他に類例をみない息の長い団体であった。日野商人の団結には二つの柱があった。一つは日野大当番仲間が、売掛金返済訴訟において江戸幕府へ直に上訴できる法的手続きを明記した規定をもっていたことである。政治的支配の異なる遠国に商圏を張った近江商人にとって、債権の確保は最大の関心事であった。もう一つの柱は、中山道と東海道での特約旅館制度であった。特約旅館は、「日野商人定宿」の看板を掲げ、長旅を続ける近江商人に心身の安らぐようなサービスを提供すると同時に、取引の利便性を与えた。

 社会的貢献

 
本宅を近江に維持して全国を活動舞台とした近江商人は、地元や出店を設置した地域住民への細やかな配慮を絶やさなかった。秩父に出店を開いた矢尾喜兵衛家の四代目当主は、開店後100年以上を経た安政年間になってもなお、自分達は外来者であることを忘れずに、品行を方正にしなければならないと店員を諭し、普段から秩父の住民への施米や施金に努めた。近江商人の社会公共のために尽くした陰徳善事は、数えるいとまもないが、わずかに瀬田唐橋の一手架け替えと、天保飢饉時に敢行された飢饉普請を紹介しておこう。

中井正治右衛門は、文化12年(1815)に幕府に願い出て、古代以来最も重要な瀬田唐橋を独力で架け替え、将来にわたっての架け替え基金を寄付した。工事と基金の総計は3000両であり、今日であれば100億円にも相当する。

北海道松前に出店し、漁業経営で産をなした藤野四郎兵衛家は、天保の飢饉時に、松前では数千俵の米の施与や原価販売をおこなう一方、郷里の近江でも住宅の改築と寺院仏堂の修築工事を実施した。工事着工を聞き付けた領主の彦根藩は、他人の難儀を顧みない身勝手な振舞いとして、役人を派遣して差し止めようとしが、四郎兵衛の企図が窮民救済のための起工にあることを知って、逆に嘆賞したという。郷里の人々はこの人助けの美挙を「藤野の飢饉普請」と呼んで長く称えた。

以上のような近江商人の義挙は、収益性と社会性の両立という観点から、法令順守や環境保護とともに社会貢献を重視して、企業活動そのものを通して社会との良き関係を維持することが必要になってきているという、今日のCSR(企業の社会的責任)の考え方の先駆けといえる。

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